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アフリカ難民ルイスさんの証言 1

Posted on: 2018年 11月 03日

アフリカ難民ルイスさんの証言
 1 虐殺を逃れて

 1 虐殺を逃れて
 2 日本にたどりついたのに
 3 ふたたび迫害のターゲットに

 日本の入管および警察の権力濫用によって家族を引き裂かれたルイス・クリスチャン・ムバラさんの手記の日本語訳を、先日に公開した。

 参考記事 「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発 (2018年9月16日)

 くわえて、もともとルイスさんはアフリカからの難民である。しかし入管は彼を難民認定していない。彼は自分を強制送還しようとする入管の不当性を明らかにするため、自分の経験を日本の市民に知らせたいと希望している。以下は、ルイスさんの手記のうち、彼の難民としての事情にかんする部分の翻訳である。

 ルイスさんはカメルーンに生まれたが、紛争による避難先の中央アフリカ共和国での養子縁組により、中央アフリカ市民の身分をもつ。彼は2001年の中央アフリカでのクーデター未遂に巻き込まれ、想像を絶する虐殺から逃れるため、命からがら日本に逃げついた。

 ところが来日から約10年後、ルイスさんは 巻き込まれた事件のせいで、彼の中央アフリカの家族、親族が殺され、ルイスさん自身は自分の犯していない罪をなすりつけられ、刑務所送りになるまでの、悲劇的な経緯が記されている。しかもこの事態は、日本の警察が彼を離婚に追い込み、彼の事業資金を配偶者が無断で持ち去ることを警察が容認したことが、間接的な要因になっている(警察の件については上記記事の第3節を参照)。

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 [1]この手記を書くよう促してくれたボランティアに敬意を表しつつ。私はカメルーン出身のムバラ・ルイス・クリスチャン(1981年生)といいます。
 私の家族は巻き込まれた政治的問題のため、中央アフリカ共和国領に避難しました。詳しい事情については分かりません。当時私は5歳くらいでした。その後、両親と兄、姉は難民申請するためにヨーロッパに発ちました。私は、中央アフリカの首都ベンギの一地区に住む父の友人――二人ともムバヤ(Mbaya)という氏族に属していました――のところに残されました。私は彼の養子となり、アマドゥ・ウスマンというイスラム教の名を与えられました。こうして私は中央アフリカで育てられたのです。16歳のころ私は全国リーグに出るフットボール選手となり、そして19歳でナショナル・チームに選出されました。
 私が12歳のころ、中央アフリカでは政治的、軍事的な対立が生じ、氏族間の内戦へと発展しました。戦争の構図が変わるごとに、新たな氏族と指導者が権力に就き、昨日の友が今日の敵になるということが繰り返されました。とはいえ、こうした政治的側面にかんして私がきちんと説明できるわけではありません。私が知っているのは、毎日、身近なところで誰かが死んでいたということです。銃で、あるいはエイズをうつすことによって、人が人を殺していました。

2001年、クーデター未遂から虐殺へ
 2001年5月28日〔ルイスさんが20歳になる少し前〕に起きた、パタセ大統領の政権にたいするクーデターに、私の中央アフリカの家族は直接に関与していました。[2]クーデターが未遂に終わると、すぐに政府軍が、怒りと復讐欲に満ちた報復をはじめました。私の住んでいた場所も政府軍の標的にされ、14歳以上の男性はすべて殺され、すべての女性がレイプされました。私は幸運にも、両親とともにウバンギ川の向こう側、コンゴ民主共和国領に逃げることができました。
 二、三週間後に家に戻ると、居間で4人の兄弟の遺体を発見しました。私たち家族は非常に大きな衝撃を受けました。最悪だったのは、兄弟を家の敷地内に葬らねばならなかったことです。死体を墓地に運ぶ途中で政府軍に見つかれば、反乱勢力として捕まえられてしまったでしょう。そうなれば兵士たちによる最悪の身体的拷問を死ぬまで受けつづけたでしょう。そのような危険を犯すことは誰もしませんでした。
 政府軍と反乱勢力との戦闘は、私の家族や親族の多くが属していた氏族であるヤコマ(Yakoma)をめぐるものとなりました。

【参考資料】国連難民高等弁務官(UNHCR)短報(2001年6月29日)抄訳

中央アフリカ共和国 数万人が避難

 中央アフリカでは、先月のクーデター未遂にたいして政府が反対派の弾圧を始めて以降、数万人が避難のために自分の故郷を離れている。およそ6万人から7万人の国内避難民が、中央アフリカの首都バンギの南部にいる。それ以外にも1万4千から7千万人が、コンゴ民主共和国の北西の端にある赤道州に逃げている。

 ……クーデター勢力によるバンギのアンジュ=フェリックス・パタセ大統領邸への攻撃は、多数の死者を出したと報じられている。その後、報道によれば兵士たちは、〔クーデター指導者〕アンドレ・コリンバ元陸軍参謀長が属するヤコマ民族を狩りまわっている。

ルイスさんの兄がクーデターの中心人物として報じられる
 その後、銃撃により負傷したジャデル=ブダヤ将軍(François Ndjadder-Bedaya)が三週間の意識不明をへて死亡したと報じられました。政府によれば、将軍はクーデターの夜、勇敢にも反乱者たちに反撃するなかで、私の二人の兄のうち一人に撃たれたというのです。[3]この報道は国営のラジオおよびテレビで流されたので、私たちはみなそれを聞きました。怒りが国じゅうに広がり、政府軍の全兵士が敵を狩り出し殺すために出動しました。死体がそこかしこに転がりました。

 私の親しい人々がもの言わぬ死体となり、悪臭を発しながら腐っていくさまを思い出すと、耐えがたい苦しみに襲われずにはいられません。いまだに、いまだに私は、あの日々を忘れようと苦しみもがいています。

コンゴでの避難生活

 クーデター未遂がもたらした一連の帰結を見れば、私の中央アフリカの両親がもはや中央アフリカには暮らせないことは明白でした。

 私たちが一時的な隠れ家を見出せる場所は、コンゴ民主共和国のみでした。しかし不幸にも、私たちが居た、中央アフリカの首都ベンギの川向うにあるコンゴ領ゾンゴという都市は、ジャン=ピエール・ベンバの系列の反乱組織バニャムレンゲの民兵が支配する地域でした。私たちはまたもや戦時にある国に暮らすことになったのです。そこでの生活は地獄でした。あらゆる種類の支援を反乱勢力に提供しなければならず、それを拒んだなら兵士に連れ去られたのです。〔ベンバはモブツ失脚後に結成されたコンゴ解放運動MLCの指導者、2002年の和平後2006年まで副大統領。バニャムレンゲは、本来はコンゴ東部のルワンダ系の人々を指す語だが、1996年のコンゴ戦争以降、さまざまなバニャムレンゲの民兵組織がさまざまな勢力に結びついて活動した。〕

 私たちはコンゴに約一年間滞在しました。その間、さまざまな勢力どうしの争いにより、私たちの不幸は日々より大きくなっていったので、新しい住みかを探さねばならないと考えるようになったのです。コンゴは地獄でした。とはいえ、コンゴ領内を移動することは、大変なだけでなく危険なことでした。

避難先の選択
 [4]希望がもてる唯一の避難手段は、中央アフリカ共和国の首都ベンギのどこかの大使館でビザの取得を代行してくれるブローカーを使うことだけだったのです。しかしほとんどの大使館は政府軍に警備されており、全来訪者をチェックしていました。彼らに疑わしいと見なされた者が捕まると、そのまま行方不明となり、数日後に死体となって道端で発見されるのです。私たちの近くにあった唯一の大使館が日本大使館であり、しかも幸運なことに、そこは反政府勢力の支配区域に位置していたので、政府軍に警備されていませんでした。

 養父アマドゥ・エケウに授けられたアマドゥ・ウスマンというムスリム名のおかげで、ブローカーは私のパスポートを簡単に取得することができました。私たちは中央アフリカ・ベンギの日本大使館を訪れ、すぐに私のビザを取得すると、家族の車二台を売り払ってから、川を渡ってコンゴ領に戻りました。

 ここからが私の逃避行でもっとも危険な部分、すなわち、誰にも捕まらずに空港にたどり着いて飛行機に乗るまでの過程です。コンゴ民主共和国領内では、もっとも近い空港はすら二千キロも離れていました。[5]そこにたどり着くまでには、コンゴのさまざまな反政府勢力や政府軍のいる地域を通過しなければならず、そうした地域では中央アフリカ人もまた戦闘に加わっていたのです。そうした場所にいれば、私は敵の傭兵かスパイと疑われたことでしょう。他方で、中央アフリカの最寄りの空港までは6、7キロ程度の距離でしたが、それでもそこを目指すのは自殺行為でした。残る選択肢はカメルーンの空港でしたが、それもやはり危険な選択でした。長いあいだ困惑しつつも考えた結果、私の家族は、中央アフリカを経由してカメルーンの空港に行くという選択肢を私に試させようと決めました。


 2 日本にたどりついたのに
 3 ふたたび迫害のターゲットに



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by p-dragon | 2018-11-03 09:27 | 個人のケース(証言・抗議)  

アフリカ難民ルイスさんの証言 2

Posted on: 2018年 11月 03日

アフリカ難民ルイスさんの証言
 2 日本にたどりついたのに

 2 日本にたどりついたのに
 3 ふたたび迫害のターゲットに


エクソダス
 中央アフリカでの私の旅はさながら出エジプト記のようでした。私のほかにも多くの人々が、手遅れになるまえに逃げるという私と同じ理由で、旅路を共にしたのです。検問を避けるため、私たちは徒歩で路上を進みました。政府の兵士たちがすべての車両を停止させ、すべての乗客の身元を注意深く確認していたからです。捕えられた者は死ぬまで拷問されました。途上では多くの死体を目にしました。道の先に人影が現れるたびに、私の心臓は高鳴り、恐る恐る顔を確かめました。

 私の兄弟の消息については何の報せもありませんでした。クーデター以後、[6]彼らの死体は発見されていませんが、しかし生存の証拠も見つかっていません。彼らについて善い噂も悪い噂も耳にしたものの、確たる証拠はまったく出てきませんでした。政府は、いまだに彼らを探し回っていると報じていました。

 もし私が捕まったら、パスポート、予防接種カード、そして身に着けた下着に隠していた5000ドルといった所持品は、私が逃亡者である明らかな証拠となったでしょう。それでも私は、野蛮から逃れるために進み続けました。家族や友達のことが、私が育った街のことが懐かしくてたまらなくなり、もし引き返せるのなら、という思いが去来しました。しかしそうすれば、カメルーン国境には二度と辿りつけなくなったでしょう。

 首都ベンギから離れれば離れるほど、旅路を共にする人たちの数は減っていきました。政府支持の街や村を避けるため、密林のなかを移動したことも何度かありました。私たちは集団で移動していましたが、自分の責任は自分でとり、事情をおたがいに秘密にしていました。私は森のなかで食べ物を見つけることがほとんどでしたが、その一方で、集落で食べ物を買ってくる人もいました。

国境をこえてカメルーンへ
 46日かけて、私たちはようやくカメルーン国境に到達しました。ようやく中央アフリカの兵士に捕えられる恐怖から解放されたのです。

 [7]ところがカメルーン領に入り、手続きのため検問所に入ると、そこでは悪夢が待ち構えていました。カメルーンの兵士に何時間も尋問されることになったのです。彼らは私が兵士ではないのかと言いがかりをつけ、私には分からないことばかり尋ねてきました。私はすべての言いがかりを否定しました。彼らは私を送還すると脅したうえで、とても払えないような高額のわいろを要求してきました。最終的に私から何も取れないと分かると、彼らは私を中央アフリカ領まで戻したのです。彼らカメルーンの兵士の冷酷さには別段驚きませんでした。クーデターが始まるまえから、彼らの残酷さを私は目撃してきたからです。〔中略〕

 [11]かつての忌まわしい記憶を思い出しつつ、もうカメルーン兵に手続きはもちかけるまいと決めました。国境で数日を過ごした後、私はブローカーを見つけ、彼と兵士とに少額のお金を払うだけで手続きを代行させることができました。

 ブローカーの案内で乗ったバスでは、運転手と助手以外、他の乗員もすべて中央アフリカ出身者でした。発車後20分ほどで検問所に停まると、兵士が全乗員にパスポートを出すよう命令しました。私たちは運転手に、2千CFAフランをパスポートに挟んでおくよう助言されました。最初の検問所を抜けた数分後には、また別の検問所に停められました。そこの兵士はより攻撃的な態度で、パスポートと予防接種カードを出すよう命令してきました。そして、ある兵士は自分が警察官だといい、別の兵士は自分を憲兵や医療機関の者などと称し、それぞれに金を要求してきたのです。何人かの乗員は抗議しました。彼らの制服から、彼らが同じ所属であることは一目瞭然だったからです。[12]しかし兵士たちは、金を出さなければ逮捕すると脅してきました。仕方なく私たちは金を払いました。それからも、カメルーンの都市ベルトゥアに到着するまで、検問所に停まるたびに金を払わされました。

 ベルトゥアはとても大きな都市で、あちこちに旅行代理店がありました。私は誰にも頼らず自分で、首都ヤウンデ行のバスを売るチケット売りを見つけ、バスに乗りました。大型のバスで乗員が20名はいました。ところが奇妙なことに、どの検問所でも兵士は私だけを目に留めてパスポートの提出を求めてきたのです。つまり、乗員のうち私だけが外国人だったのです。私はまたパスポートに金を挟んで渡しました。ヤウンデに着くまで、すべての検問所で同じことに煩わされました。

 なぜそんなに簡単に私が外国人だと分かるのか、不思議でした。私の血縁上の家族はカメルーンから脱出しましたが、それでも私は5歳までこの国に暮らしていたのです。それでは何が変わったのか。服装や髪形がカメルーンと中央アフリカでは大きく違ったのです。

ヤウンデ空港で出国を妨害される
 [13]ヤウンデまでは10時間かかりました。停車場には標識や案内図がなかったので、航空券を扱っている旅行代理店を見つけるためにタクシーを拾いました。スイス航空に連れてこられたので、そこで私は成田空港行の便を予約しました。代金はおよそ3千ドルでした。出発まで2日あったので、小さなホテルに泊まり、〔外国人と判別されやすい〕外見を変えるために服を買いました。

 私はなるべくホテルの部屋から出ないようにしました。家族や友人のことを思い出し、故郷にあったすべてが懐かしくなり、私は長いあいだ泣いていました。

 出発の日、離陸の二時間前に私は空港に到着しました。航空会社の窓口で予約を確認し、アナウンスを聞いてからゲートを通過すると、その先には警察と入管の窓口が、そしてさらには憲兵の窓口がありました。彼らは私のパスポートと予防接種カードを確かめると、とても払えない法外な額を払うよう要求してきました。彼らは私を尋問のための部屋に連れて行くと、私が中央アフリカ政府に追われている難民であることを非難し、[14]私を送還すると脅しました。もう離陸まで時間がなかったので、私は言葉を尽くして懇願しましたが、それでも彼らは私を通そうとしませんでした。

 2時間も尋問されたあと、500ドルを払ってようやく解放されましたが、私の便はもう離陸していました。航空会社の窓口に行くと、スタッフは私のせいで40分離陸が遅れたと怒っていました。事情を話すと、別な空港から発つように助言されました。ヤウンデは首都で〔外国人の往来が多いので〕、職員たちはいつも外国人に金をせびろうとするのだと聞きました。私はスイス空港に遅延のペナルティとして100ドルを払ったうえで、私はドゥアラ空港から発つ便に乗ることになりました。

日本にたどり着いてから
 5日後、私はドゥアラ空港にいました。私は問題なく機内に搭乗できました。スイスで私は乗り換えましたが、空港の名前は憶えていません。

 成田空港に着いたときには、ドゥアラを発ってからほぼ2日が経っていました。入管窓口では職員に厳しく尋問されましたが、数分後には窓口を通過して日本に入ることができました。入国日は2002年7月27日です。

 ルイスさんは空港で出会ったガーナ人の男性に渋谷まで案内されたものの、当時は英語が話せなかったのでコミュニケーションがうまくとれず、さらには宿代が払えるほど所持金が余っていなかったため渋谷駅周辺で2日を過ごす。その後、アフリカ人が多くいると聞いて訪れた原宿で、彼はフランス語を話せるアフリカ出身者に、国連難民高等弁務官(UNHCR)駐日事務所が渋谷にあると教えられる。UNHCR事務所に訪問すると、今度は難民支援協会に連れていかれ、そこで数日にわたりインタビューを受けた後、難民支援協会スタッフに案内されて入管で難民申請をおこなった。

日本の残酷な難民認定制度
 [16]私は入管で何度もインタビューを受けました。中央アフリカで起きたことについて私は明確に説明しました。しかし一年半後、入管は難民不認定の結果を下しました。私はすぐに異議申立てを行いましたが、しかし在留資格を切られオーバーステイにされてしまいました。

 それから11か月後、私はオーバーステイを理由に警察に逮捕されました。11日間留置された後、入管に送られ、一度のインタビューを受けてから、2004年4月頃、私の収容が決定されたのです。これが私にとってはじめての、1年6か月にわたって続く入管収容となりました。

 収容中、私は多くの強制送還を目にしました。トルコのクルド人の家族が送還されるのも見ました。入管職員による洗脳のせいで妻や子を失う人たちもいました。どれほど日本の難民システムが残酷なものかを私は知ったのです。こうしたことが起きるたびに私は大きな恐怖を覚えました。不安に襲われるのは毎晩のことで、明け方5時ごろに、多くの職員たちの足音が聞こえてくることを私は実に恐れていました。[17]なぜなら、この時間帯に入管職員たちは居室から被収容者を連れ出して送還するからです。

 東京カトリック教会の方々に保証人になってもらい、私はようやく解放されました。あの地獄から私を出してくれた彼らにいつも感謝しています。

 解放から数か月後に、難民不認定にたいする異議申立ての結果を知らされましたが、それは私の生命の保護を拒否するものでした。私のようなケースの難民を受け入れない国は日本以外にありません。送還されるのではないかという恐怖を日々より強く感じるようになりました。私は弁護士をつうじて入管にたいして難民認定を求める裁判を提訴しました。仮放免の更新で入管に出頭するたび、また収容するぞと職員に脅されました。私が裁判に勝てる見込みはなく、すぐに敗訴の判決が出るはずだから帰国しろと言われました。仮放免更新のための出頭日にはほぼかならず、多くの人が捕まって入管に連れてこられるのを見ました。

カメルーンのパスポートを取得
 中央アフリカに送還されるかもしれないことへの恐怖から、私は中央アフリカのパスポートのかわりに、私の出生国であるカメルーンのパスポートを取得することにしました。[18]カメルーン出身の友人が、本国の家族をつうじて私の必要書類を取得することを手伝ってくれたので、カメルーン大使館でパスポートを取得することは容易になりました。しかも大使館には、私の血縁上の父が属している氏族の出身者や、両親が政治問題に巻き込まれるまえに父と同じ上位の学校を出て、父と同じ政府機関に勤めたことのある人が勤めていたのです。

 入管の手続は非常に緩慢でストレスがたまるものでした。同様の経験のある外国人と話すたびに、日本の難民システムがどれほどに申請者を抑圧しているのかについて、より強く実感するようになりました。

 その後、2007年にルイスさんは、ある日本人女性と交際をはじめる。二人は愛情を深め、結婚を決意するに至る。女性はルイスさんの生い立ちを境遇を聞き、彼に深く同情したので、中央アフリカで養子縁組により得たアマドゥという名ではなく、出生地カメルーンで親が授けた本名ルイスで結婚することを提案した。ところが、本名での結婚を入管に届けると、入管はルイスさんの事情を無視して彼を収容してしまう。その後の事情については公開済。

「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発






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by p-dragon | 2018-11-03 09:25 | 個人のケース(証言・抗議)  

アフリカ難民ルイスさんの証言 3

Posted on: 2018年 11月 03日

アフリカ難民ルイスさんの証言
 3 ふたたび迫害のターゲットに

 1 虐殺を逃れて
 2 日本にたどりついたのに
 3 ふたたび迫害のターゲットに


 2012年、ルイスさんは、あるカメルーン人に商談の通訳を依頼されたが、その取引が実は詐欺だったため、無実であるのに警察に疑われ、逮捕されてしまう。彼は起訴されずに解放されたものの、警察による嘘と誘導のせいで、配偶者との関係が破綻してしまう。配偶者は警察に促され、第二子を堕胎し、ルイスさんの事業資金を勝手に持ち出して姿を消した(「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発 3 を参照)。

 家族の喪失にくわえて、ルイスさんは仕事で客から預かった金を返せなくなり、さらには詐欺を実行した同郷出身者を警察に売ったとしてコミュニティから敵視されるようになった。それがあろうことか、アフリカの彼の家族、親族が命を奪われ、彼自身もまた脅迫されて犯罪の濡れ衣を着せられるという事態に発展してしまう。


密告者として非難される
 [49]中央アフリカの家族から私に電話がかかってくるようになりました。なんとしても客から預かった金を返してくれ、彼らは政権の関係者だと言うのです。[50]日本では、詐欺の実行犯の友人たちが私を脅しはじめ、詐欺の獲物になる別の日本人を紹介しろとか、金を出せとか言ってきました。彼らの名前を私が福岡県警に教えたからです。

 数日後に私は、在日カメルーン人の団体の代表を務めていた男性に呼び出され、彼らの名を取調中に警察にばらしたのか、私が彼らに出会った六本木の店も伝えたのかを尋ねてきました。私ははじめ否定しましたが、しかし男性は、警察が彼を訪れ、実行犯の友人たちの名を口に出し、店について尋ねてきたというのです。私は警察に情報を伝えたことを認めました。その結果、私の名が警察への密告者として、カメルーン人や他のアフリカ人のコミュニティの全体に伝わってしまいました。みなが私を、故郷とコミュニティにたいする裏切り者として罵りました。

 六本木を歩いていて、アフリカ人女性に傘で後頭部を殴られ、耳をひどく痛めたこともあります。[51]なぜ殴ったか女性に聞いたところ、彼女は詐欺実行者のガールフレンドで、彼が逮捕されカメルーンに送還されたことや、私が彼と出会った店は警察に監視されていることは私のせいであり、だから報いを受けねばならないと言うのです。他にも多くの人に脅され、あるいは殴られたので、私は界隈を離れました。数か月後、例の店は閉店していました。

 中央アフリカ共和国にいる友人が、私の中央アフリカの親族とカメルーンの親族との双方に圧力をかけはじめました。日本在住の友人が私の状況を説明し、弁護士が動いていることも伝えてくれましたが、彼は信用せず、私の親族を脅しつづけました。日本でも詐欺実行者の友人やコミュニティからの脅しは続き、そして弁護士は妻の行方を追跡できないままでした。

アフリカの家族・親族の虐殺

 2013年2月、中央アフリカの友人と他の人たちが、いよいよ注文した車や預けた金の返却を要求してきました。[52]同じころ、中央アフリカ政府が、私の親族を反乱勢力の支援者として非難しはじめます。私が彼らの預かった金を反乱勢力に資金として提供していたと主張したのです。私の親族は電話で助けを求めてきました。弁護士が動いているものの、警察の妨害のせいで訴訟に進めずにいるとしか私は説明できませんでした。

 2013年5月、親族が軍に連れ去られたという報せが届きました。親族の携帯に電話をかけても、誰も応答しません。フランスにいる血縁上の親族に電話をかけると、彼らが恐怖で慌てながら次のように説明しました。反乱勢力が中央アフリカ共和国の首都バンギを掌握した後、私の親族の多くが失踪した、後の情報によれば彼らを連れ去ったのは政府内にいた私の顧客の親族である、政府関係者は首都を放棄するさいに、多くの人々を殺していったのだと〔中央アフリカ共和国では同年3月24日、反乱勢力の同盟セレカが首都バンギを制圧し、8月には中央アフリカ共和国史上初のムスリム大統領ジョトディアの政権が発足した〕。

 このことを顧客に電話で尋ねると、顧客は事実を認めました。私は誰も裏切っていません。[53]しかし彼は、私が彼らの金を反乱勢力に提供したことの報いとして、私の親族を40人以上も殺したのだと言ったのです。

 さらには、中央アフリカとカメルーンの双方で、他の多くの親族が失踪しました。

続く敵視と脅迫
 私によって名前を警察に密告されたと考えた人たちが日本を離れました。その一方で、何らかの理由で日本に戻ってこられなくなる人もいて、そのなかには日本人女性とのあいだに子をもつカメルーンの議員もいました。駐日カメルーン大使館では、私の国籍問題をめぐって意見が割れました。ある者は私がカメルーン出身ではないと言い、ある者は私の親族はみなお尋ね者になっていて、私自身は中央アフリカ一帯のイスラム主義者を支援していると言います。

 日本のアフリカ人コミュニティにおける私にかんする風説は、フランスやカメルーンにも流され、私だけではなくフランスにいる私の両親をも苦しめました。私はすべての所持金を関係者に払い、フランスの両親も金を出してくれました。しかし彼らはもっと金を出せと言い、私が返すべき金額よりもさらに多くを要求してきました。

 悪魔のような日本の警察のせいで、私は結婚生活を壊されただけでなく、[54]アフリカにいた自分の家族や親族を虐殺されてしまったのです。警察の背後にいる人種差別的な政治家たちにたいして、私は無力です。私の弁護士も、このようなシステムにうんざりしていました。

詐欺の罪をなすりつけられ刑務所に
 カメルーンの議員と彼の日本およびフランス在住の仲間は、私や、フランスおよびカメルーンにいる私の家族・親族を脅しつづけました。私や私の家族・親族が解放されたいなら詐欺の獲物を見つけてこいと、彼らは私に言うのでした。私はやむをえず彼らを手伝うことにしました。

 2013年6月、私は仙台に待機させられ、その翌月に逮捕され、自分が犯していない罪で3年半も刑務所に入ることになりました。例のカメルーンの議員とその日本人のガールフレンドが仲間を使って、詐欺の被害者、目撃者など、すべてを仕組んだのです。

 私は事情を弁護士と警察に説明しようとしましたが、しかし弁護士〔東京で離婚の件を扱った弁護士とは別〕は、その話をすれば警察の追及はさらに厳しくなるから黙っていたほうがいいと助言してきました。起訴の後、警察はこの事件が嘘の証言にもとづいていると気づきます。取調官は私に、[55]弁護士の助言に従って取調中に黙っていたのは愚かだった、事実が何であれ警察が私を助けられる段階ではもうないと伝えました。私はみずから法廷で検察官にたいして弁明しなければなりませんでした。

 私が無罪を主張したので、裁判は1年2か月かかりました。控訴したものの結果は変わらず、3年6か月の実刑が確定し、実際には横浜刑務所に1年6か月入りました。

入管収容所で自殺を試みる
 2016年10月4日、私は刑務所を出ましたが、同じ日から私は茨城県の東日本入管センターに収容されつづけています。そこで私はふたたび難民申請をしました。

 今年6月14日、私は自殺を試みました。私を離婚に追い込み、私の第二子を堕胎させ、あらゆる人種差別的な行為を働いたこの国の政府機関が、私を難民として保護するなどとは信じられないからです。

おわりに
 日本政府がアフリカ人、アジア人など貧しい国の人々を嫌っているのは疑いようがありません。政府の職員が家族を引き裂き堕胎をさせてしまうのです。[56]入管は常習的に他の人種を憎み、日本人と異人種との結婚を引き裂くために、外国人の配偶者にたいする憎悪と偏見を日本人に植えつけているのです。

 この手記が多くの人に読まれ、もしどんな理由であれ日本の入管に収容されれば自分の身に何が起こりうるのかを知ってもらえれば幸いです。日本の公務員の人種差別的な行為について私が述べてきたことは、日本人には隠されていますが、すべての在日外国人コミュニティや駐日大使館、あるいは弁護士やボランティア団体が知っていることです。

 私の夢は娘に再会し、父親として彼女にできるかぎりの支援をすることです。しかし日本政府が私の権利の障害になっていると私は考えます。




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by p-dragon | 2018-11-03 09:23 | 個人のケース(証言・抗議)  

「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発 1

Posted on: 2018年 09月 16日

「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発

 1 まえがき
 2 入管により結婚生活を破壊されかける
 3 警察により結婚生活を破壊される


まえがき

 カメルーン難民のルイス・クリスチャン・ムバラさん(1981年生 男性)は、すでに二年近く、東日本入国管理センター(牛久市)に収容されている。5月、彼は収容所内で自殺を図ろうとした。難民認定されないことだけが理由ではない。彼が怒っているのは、日本の入国管理局と警察からこうむった深刻な不正にたいしてであり、彼が絶望しているのは、入管と警察のせいで彼の配偶者と娘との幸福な生活が失われたことにたいしてである。せめて入管と警察の不正を市民に伝えたいという彼の意をくんで、当団体はルイスさんの手記(2018年7月23日付)の一部、入管と警察の非道な仕打ちにかんする部分を公開する。

 手記の概要は次のとおりである。ルイスさんは幼少期に、カメルーンでの紛争のため、家族ともども隣国の中央アフリカに避難。その後、ヨーロッパに避難する親からルイスさんを託された親の友人は、ルイスさんを養子として引き取り、アマドゥ・ウスマンというムスリム名を与えた。2001年、クーデター未遂事件により中央アフリカの紛争が激化するなか、ルイスさんは当時彼が唯一入手できた日本の査証を使って、2002年7月、命からがら中央アフリカからカメルーン経由で日本に到達し、難民申請をする(ここまでの事情は、後日、以下に公開した)。

 アフリカ難民ルイスさんの証言 (2018年11月3日)

 2007年、ルイスさんは一人の日本人女性と知り合い、翌年に彼女と結婚する。2009年2月には二人のあいだに娘が生まれる。ところがその直前、2008年12月頃、ルイスさんは東京入管に収容されてしまう。ルイスさんはカメルーン行の飛行機に乗せられかけるが、彼は命がけの抵抗で送還をどうにか免れる。しかしながら入管職員に吹き込まれた虚偽の情報により、配偶者は自分がルイスさんに騙されていると信じ込んでしまい、彼の結婚が破綻しそうになる。

 ルイスさんは1年10か月の収容をへて仮放免され、配偶者との関係をどうにか修復することができた。その後、彼は日本人配偶者の在留資格を獲得し、順調な結婚生活へと踏み出す。ところが2012年10月にルイスさんは、彼自身が巻き込まれた事件の共犯と疑われ、福岡県警に逮捕されてしまう。彼は無実であり、起訴なしで解放された。ところが警察は、配偶者に偽りの情報を吹き込んだうえで、混乱した彼女に全面的に加担して、ルイスさんの釈放前に二人の離婚を成立させていた。さらには逮捕前に授かっていた第二子を、配偶者は混乱のなかで堕胎し、ルイスさんの事業資金を勝手に持ち出したうえで音信不通となってしまう。

 東京入管、福岡県警および警視庁(赤羽警察署)がおこなった残酷な不正を、ルイスさんは克明に記している。この手記だけですべてを確定的な事実と判定するのは難しいとしても、彼らがルイスさんに行ったことは権力犯罪とすら呼ぶべき内容である。ぜひ一読されたい。



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by p-dragon | 2018-09-16 09:17 | 個人のケース(証言・抗議)  

「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発 2

Posted on: 2018年 09月 16日

「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発
 2 入管により結婚生活を破壊されかける

 1 まえがき
 2 入管により結婚生活を破壊されかける
 3 警察により結婚生活を破壊される

 ルイスさんはカメルーン国籍のルイス・クリスチャン・ムバラとして結婚を届け出たが、日本入国および難民申請のさいは中央アフリカ国籍のアマドゥ・ウスマンの身分で手続きしていた。まえがきのとおり後者の身元は、ルイスさんが幼少期に難民として中央アフリカに移った後、養子縁組により得た身分であり、日本に渡航するために作った架空の身分ではない。くわえて、かつてフランスのテレビ番組にアマドゥ・ウスマンとして映されたことも、彼がアマドゥとして難民認定を求めた理由の一つだった。

 2008年、日本人女性と結婚するさい、彼女の勧めにより、ルイスさんは本来の名で結婚を届けることを決意する。


結婚を入管に報告したために収容されてしまう
 [19]……カメルーンのパスポートで結婚しないかと妻は私に言いました。そこが私の両親の故郷であり、子どもに私の出自を知らせるのがいいと考えたからです。私たちは市役所で結婚を届けました。その数日後、弁護士から電話があり、裁判で負けたと報告されました。入管は、私を収容し、送還すると脅しはじめました。次にどうするか、弁護士と相談しました。送還の心配はなく、結婚にかんする文書を入管に提出すべきだと彼は言いました。書類を提出したとき、妻は妊娠八か月でした。

 私が裁判のあとに国籍を変更したことにたいして、入管職員は怒って、私のパスポートが偽物だと言ってきました。

 2008年12月頃、仮放免延長手続のさい、私は二度目の収容されてしまいました。この悪い報せを私は電話で妻に伝えましたが、そのせいで妻は体調を崩し、[20]入院してしまいました。義母が面会に訪れ、すぐに仮放免を申請しましたが、不許可となりました。収容中に私は、裁判が終わったのだから中央アフリカに帰国しろと、職員から大きな圧力を受けました。どんな方法でも私を送還できると脅されました。あまりに大きな圧力に、私は平静を保てず、パニックに陥り、中央アフリカに送還されることを心配しました。送還を避けようとして、私は陳述の内容を変え、自分の背景を何度も否定し、とても苦しいことでしたが自分のパスポートをみずから否定しました。

東京入管の職員に嘘を吹き込まれ配偶者の態度が急変
 義母とともに妻が面会に来ました。妻は娘を出産するまでに、二か月間入院しました。出産の一週間後、妻は私と面会することを決心したのです。また彼女に会えることで私は嬉しくなり、他の被収容者たちにも私の変化が感じられるほどでした。

 彼らは私にこう警告しました。結婚を破綻させ、外国人を日本人の配偶者と引き離す、入管職員の洗脳と精神操作のシステムに気をつけろと。私自身も、日本在住のアフリカ人コミュニティや他のコミュニティのあいだで、そのような不平を何度も聞いてきました。[21]でも私は信じませんでした。彼らがすべて説明したあとにも、私は信用せず、彼らはおかしくなったのだと本気で思っていました。

 妻と面会したとき、彼女は少し怒っていました。私が彼女をまったく支えず、子どもが産まれたときにもそばにいなかったからです。私は深く謝り、父親としてそばで支えられなかったことを本当に悔やみました。彼女は、私を愛していること、私が妻と子のそばにいることを本当に必要としていることを告げ、私を収容から解放するために最善を尽くすと言ってくれました。

 一時間後、面会に来てくれたことに感謝を伝えるために妻に電話をしましたが、非常に驚き、ショックを受けることになりました。彼女は悲鳴をあげ、怒りで声を荒げ、泣きながら私を罵ったのです。どうして彼女の感情がこのように突然変わったのかを尋ねると、私が彼女を愛していないと入管職員に言われたと、彼女は説明しました。結婚はビザ欲しさのためだけの偽装で、彼女は幸せになれない、[22]私は日本にいるために彼女を利用しているだけであり、私のことは忘れるべきである、そう入管は説明したそうです。最後に彼女は、私が永住資格を得たら妻と離婚するつもりだったと入管に言われたが、もう遊びは終わりだと、私に告げました。彼女を宥めるため、本当に彼女を愛していると私は伝えましたが、しかし彼女は入管の言うことを信じ込んでしまっていました。もう私と話したくないと彼女は言い、電話を切り、数日のあいだ電話に出ませんでした。東京にいる友人たちに電話で、入管は嘘をついていると彼女に説明するよう頼みましたが、しかし妻は彼らと話すことも拒否しました。

 次に私が妻と電話で話すことができたとき、彼女は離婚の話を切り出しました。妻と子を愛していると理解してもらおうとしましたが無駄でした。彼女は二度と面会に来ず、電話で話すときはいつも攻撃的でした。数週間後、入管職員は私と妻の関係について尋ね、まだ関係があるのにどうして会いに来ないのかと言ってきました。入管収容施設にいる人は誰でも[23]、このような汚いやり方を知っています。彼らは被収容者の配偶者が離れるように仕向けてから、被収容者に配偶者の所在を尋ねるのです。

職員に騙され強制送還されるも命がけで抵抗
 その後、カトリック教会の人たちが私の仮放免申請を支援してくれました。この方々は私を見捨てません。本当に感謝しています。彼らのことを決して忘れないでしょう。

 仮放免申請の結果を待っている間に、私と親しく、私が敬意と信頼を置いていた一人の入管職員が、難民申請を取り消したほうがいいと助言しました。日本政府は難民を嫌っているが、しかし私は日本人と結婚し、二人のあいだに娘もいる〔ので、日本人配偶者として在留を求めるほうがいい〕という理由からです。できるだけ早く外に出て家族のもとに戻るためには、それが最善の方法とのことでした。だから私は難民申請を撤回したのです。

 すぐにインタビュー(口頭審理)を行うものと思い待っていましたが、入管は何もせず、私の名前と国籍を本来のものに変更することもありませんでした。収容期間が6か月を過ぎたあと、ある日の午後2時頃に私はインタビューに呼ばれます。私が中央アフリカ国籍のアマドゥ・ウスマンかと尋ねられ、そうだと答えると、職員は次のように言いました。[24]私は退去強制を命じられており、裁判でも負けたので、私の身元をカメルーン国籍のムバラ・ルイス・クリスチャンに変更する、この名前で退去強制令書もすでに出ている、今から私をカメルーンに強制送還する。それからこの職員がインタビュー終了を知らせると、多数の職員が部屋に入ってきました。何人かは毛布を持っていました。私が抵抗したら、それで私を簀巻きにするためです。抵抗しても無駄なので、私は何もしませんでした。多勢に無勢です。別室に連れていかれ、服を着替えることを許可されました。それから入管職員で満員になっているバスに乗せられたのです。バスが空港に向かう途上で、私は自分が信頼していた入管職員に騙されたのだと悟りました。

 私の心中は混乱と恐怖で満たされていました。妻と娘を失うだけでなく、最悪なことに、私自身もほとんど知らない国であるカメルーンに送還されようとしていたのです。しかし、カメルーンの兵士によるひどい扱い〔2002年に中央アフリカからカメルーン経由で日本に渡航する過程でこうむった〕だけは記憶に残っていました。カメルーンに送還されれば、必ず拷問されてから[25]、今度は中央アフリカに送られたことでしょう。そして中央アフリカでは、ウスマンという苗字のために殺されたかもしれません。

 だから私は意を決して、飛行機に乗らないことにしました。どうなっても構いません。命がかかっているのですから。飛行機の搭乗口で、私は扉に頭を打ちつけ、気が狂ったように叫び声をあげました。パイロットが駆けつけ、私を退出させるよう入管職員に言いました。

 職員たちは私をバスに戻したものの、殺しかねないような強さで私を圧迫しました。バスが入管に戻るまでのあいだずっと、制圧をやめてくれと私は叫んでいました。入管に着くと、私は一人用の居室に入れられました。

 翌日、私が難民申請を提出したいと言うと、数日後、攻撃的な姿勢の職員が出てきました。その職員は机を叩いて、私の身に起きたことを誰かに説明したのかと尋ねてきました。わたしが話していないと答えたあとも、職員は申請書類を渡すまで私を脅しつづけました。彼らが私を家族から引き離したことを、誰にも説明してほしくないと入管は考えていたようです。

配偶者との関係の危機
 [26]私は約一年間、東京入管の独房で過ごしたあと、東日本入国管理センター(茨城県)に移され、あわせて1年10か月の収容後に仮放免されました。

 解放後すぐに私は妻に電話し、渋谷で会うことになりましたが、彼女は攻撃的でした。娘への責任を私が果たしていないので、娘にも会わせてもらえませんでした。妻は離婚届にサインするよう迫りましたが、私は拒否し、私が彼女を愛していると説得しようとしました。妻と娘を幸せにするためにできるかぎりのことをすると伝えました。しかし彼女は、私が彼女を愛しておらず、日本在留のために彼女を利用しているだけであり、彼女は私といても幸せになれないのだと、入管に言われたことを繰り返しました。彼女への愛と責任感を示すために、私にもう一度チャンスが欲しいと私は頼みました。

 すると妻は契約書を取り出して、それに署名するよう迫りました。契約書の文面を読んで、入管による彼女の洗脳がどれほど深く成功したのかを私は悟りました。私の天使が、なにか違う存在に変わってしまったのです。契約書の内容は次のとおりです。[27]もし私がまた入管に収容されたら離婚する。もし私が警察に逮捕されて刑務所に入ったら離婚する。すべての稼ぎを彼女に渡す。残りの人生すべてをかけて彼女を幸せにする。これらの約束を破れば私はもう妻にも娘にも会えない。
 私は署名を拒みましたが、しかし彼女は、もし私が契約を拒むなら裁判所に離婚を申し立てると言いました。私に選択の余地はなく、契約書に署名しました。

結婚生活の回復と在留資格の獲得
 私は車の取引や通訳などで、月に30万円ほど稼ぎましたが、すべて彼女に渡しました。二か月後、娘に会うことが許されました。娘を見て、抱き上げることは、私の人生の大きな喜びでした。それは入管による洗脳をへて、彼女の心が私に戻り、私をふたたび信用してくれる兆しでした。[28]私は家族を幸せにするために一生懸命働きました。解放から四か月後、私たちは共同生活を始め、夫婦の愛、そして娘への愛に満ちた幸せな結婚生活を送りました。

 私たちが在留特別許可を申請すると、義母が入管のインタビューを受けました。義母は、私たちの結婚をいまも家族が支えていること、私の娘が義父をもつのには反対していることを、はっきりと伝えました。入管はインタビューをつうじて義母を洗脳しようとしたようですが、彼女は影響されることなく、入管職員の悪い言葉はすべて拒否しました。入管は長期収容を利用し、私の結婚を破綻させ、どの日本人も私に反感をもつようにしようと試みました。しかし私の義母とインタビューした後、私と日本の家族との仲を引き裂くのに失敗したと入管は気づいたはずです。私の義父母はとても親切で心の温かい人たちでした。彼らは私を息子として受け入れてくれました。私がアフリカ出身の黒人であることを、私のすべての背景を受け入れてくれました。

 [29]数か月後、入管は私に在留資格を認めました。

 家族とともに暮らす時間が増えれば増えるほど、家族のあいだの愛情は深まっていきました。妻と娘は、とても美しく、そして私によくしてくれました。私は二人を情熱的に愛しました。二人を幸せにするために、私は遅くまで働きました。私の義母はフランスを旅行したときに私の家族に会いました。私自身は、もう三十年近くフランスの家族に会っていません。

 私たちは結婚式を挙げることに決め、そのことで皆が幸せになりました。義父母はかれらの娘のことをとても誇らしく思っていました。私にとっても、義父母がほほえんでいるのを見るのは幸福という言葉では言い表せないほど嬉しいことでした。妻もまた、両親を喜ばせることができたことに誇りと幸せを感じていました。結婚の数日後、妻は妊娠しました。それを聞いて、私も家族みんなも非常に喜びました。

 3 警察により結婚生活を破壊される




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by p-dragon | 2018-09-16 09:16 | 個人のケース(証言・抗議)  

「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発 3

Posted on: 2018年 09月 16日

「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発
 3 警察により結婚生活を破壊される

 1 まえがき
 2 入管により結婚生活を破壊されかける
 3 警察により結婚生活を破壊される

 2012年、シンガポールでハネムーンを過ごした後、ルイスさんは仕事に戻ると、あるフランス国籍者に、取引における日本語の通訳を依頼される。依頼者たちに同行して福岡に行くと、その取引が実は詐欺の計画であったとホテルで依頼者に告げられる。ルイスさんは協力を拒否した。ところが東京に戻る前に、彼は依頼者とともに、ホテルに張り込んでいた私服警官に拘束されてしまう。

 そのときにはルイスさんは6時間で釈放され、すぐに東京に帰ることができた。それからしばらく音沙汰がなかったので、ルイスさんは事件を忘れ、家族のことに意識を戻した。広い住居に移るために新宿から赤羽に引っ越し、第二子を妊娠中の配偶者は順調に月齢を重ね、ルイスさんの仕事も順調だった。ところが……


福岡県警による逮捕
 [33]ある朝、警察官が私を自宅から連行しました。[34]彼らは福岡県警だと名乗り、私がブラックマネー詐欺に関与した容疑があるので、取り調べのため私を福岡に連れて行くと言いました。私は通訳を頼まれただけで、私も巻き込まれた被害者にすぎないと言いました。〔ブラックマネー詐欺とは、黒く染めた大量の紙幣(紛争地から持ち出すため、などと理由をつける)を元に戻すため、薬品を買う資金を提供してくれれば紙幣復元後に金を返し、さらに分け前も払うとして、金を騙し取る手口。〕

 その場にいた妻は不安がり、気が動転してしまったので、彼女を宥め、私は何も悪いことをしていないから大丈夫だと伝えましたが、警察は彼女を私から引き離すため、別室に連れて行きました。彼女は電話で、いま持ち合わせのお金がなく、妊娠しているのにどうすればいいのかと私に尋ねてきました。私たちはハネムーン旅行と新居への引っ越しでお金を使い、また懐妊のプレゼントとして妻のために車を買ったばかりだったのです。そのため私は、仕事で使っている口座のキャッシュカードと暗証番号を妻に渡したいと許可を求め、警察はそれを認めました。

 私は福岡に連行され、そこで「対策課」の野口という警察官に取り調べを受けました。[35]私はただ通訳を頼まれただけで、取引の本当の目的を知らず、それが分かったときには後悔し、依頼を拒否して、帰ろうとした途上で警察に捕まったのだと、くりかえし私は説明しました。しかしその警察官は、私が詐欺の仲間だったという、真実ではないことを私が認めるよう、圧力をかけつづけました。接見に訪れた弁護士は、この事件は誰も実害をこうむっていない軽微なものだから、知っていることはすべて話し、なにも否定せず、謝ってしまったほうが早く済むと助言しました。

警察が配偶者になにかを吹き込む
 取調官の野口は、私の結婚を脅しの材料に使いはじめました。私がかつて署名した、妻が望んだときにいつでも離婚できると定めた契約書のことを持ち出したのです。妻は悪い人間で、私が監獄行きになるように陥れたのだと、そのように自己中心的ではない、もっといい相手を見つけていればよかったのにと、野口は告げました。私は妻を愛している、そのような洗脳は意味がないと応えました。しかし心の中では、妻を失わないかと、大きな恐れを抱いていたし、[36]日本の当局者が結婚と愛情を破壊するために何ができるかも分かっていました。

 妻は私に会いに来ませんでした。弁護士から聞いたところでは、彼女は警察から非常に悪い情報を聞かされ、自制を失っていました。しかも弁護士は、おかしなことが起きているようなので銀行口座を止めたほうがいいと言うのです。私は弁護士に、私のかわりに銀行で手続きをとってくれるよう依頼しました。

 私は弁護士の助言に従い、知っていることを警察に供述しました。実のところ依頼人たちの大半は偽造パスポートを所持していて、実際にはフランスではなくカメルーン国籍だったのですが、六本木ではじめて会ったときの彼らの話によれば、彼らの後ろ盾には日本人がついており、そのなかにはカメルーンの代議士のガールフレンドもいるとのことでした。それを伝えると、警察官は日本に在留している外国人についてさらに尋ねてきましたが、それには答えませんでした。

 取調官の野口は、私が〔かつて離婚の条件にかんする契約書とともに〕署名入りの離婚届を妻に預けていたこと、また私の収入について妻に説明していなかったことついて、私を馬鹿だと罵りました。弁護士の悪い報せによれば、[37]私もまた被害者であり罪はないと彼は妻を説得したものの、警察になにか言われたせいで、彼女はおかしくなってしまったようでした。

釈放時に「妻子を探さない」という誓約書を福岡県警に強制される
 弁護士は22日目に私が解放されると考えていましたが、私が実際に解放されたのは23日目でした。

 釈放前に私の所持品を引き渡すさい、私のほかに3名の警察官がいたその部屋には、通訳はおらず、一枚のA4用紙とペンが置かれていました。野口は、私が妻と娘を探さないという約束をその紙に書けと言いました。それまで私は日本の警察にまつわる悪い話をたくさん聞いてきましたが、自分自身も警察の被害者になるかもしれないという他人の話を信じてはいませんでした。私は警察の要求を拒否し、私は夫として父親として家族を愛していると言いましたが、野口は、妻はもう私を愛していないのだから、誓約を書かねばならないと言い返してきました。

 ふたたび私が拒否すると、三人の警察官は私の頭を荒っぽくおさえつけ、やめてくれと言ってもやめませんでした。[38]通訳がいなかったので、日本の警察が私におこなっている悪行の目撃者は私だけしかいません。より強くヘッドロックされたので、私は音を上げ、言われたとおりにすると答え、妻子を探さないと紙に書きました。

 次に野口と上級の警察官が、妻からのファックスを私に見せました。野口が読み上げたところによれば、私が銀行口座を止めたので、妻と娘は二度と私に会わないという内容です。そのファックスを私に渡してくれと頼みましたが、彼らは拒否しました。野口は、娘に会いたければ法的な手順を踏むしかないと答えるだけでした。

 野口は電話番号などが書かれたメモ書きを渡して、私の家の鍵が赤羽警察署に預けられているから取りに行けと言いました。しかし鍵は所持品のなかにあるので、私の家の鍵をなぜ取り換えたのか尋ねましたが、野口はメモに書かれた名前の警察官から新しい鍵を受け取れと答えるだけでした。

 最後に野口は、[39]もし一度でも妻に電話をしたら、彼女は通話を拒否し、二度と連絡が取れなくなると警告してきました。電話をかければ状況はより悪くなるとくりかえし言ってきました。

配偶者が警察に聞かされたこと
 私が福岡で釈放されたのは、たしか2012年10月の最終土曜日、ハロウィンの頃〔27日〕でした。めまいと頭痛がしたので鎮痛剤を買い服用したあと、妻に電話しましたがすぐに切られ、かけなおすと電源が切られていました。〔中略: ルイスさんは心身うちひしがれながら東京に戻り、鍵が引き渡される月曜日まで泊まる宿を探した後、配偶者や義母に電話やEメールで連絡を試みるも応答がなかった。〕

 [40]私は何人かの友人に、電話で状況を説明しました。彼らは私が逮捕された後、私の妻を助けようと彼女に連絡をとってくれていました。彼女は警察に、私が外に出られず刑務所送りになるだろうと聞かされていたそうです。その後友人たちは、警察の言っていることは離婚させるための嘘であり、私も騙された被害者でしかなく、取調べが終われば戻ってくるだろうと、彼女を説得するために電話をかけたものの、彼女は電話の電源を切ってしまっていたそうです。

 夜中12時ごろ、妻からEメールの返信がありました。内容は私の心を挫くものでした。偽装結婚について三千万円の賠償を私に求める裁判を起こすというのです。彼女は警察から、ビザを得るために私は彼女を利用していただけで、永住資格への切り替えが済めば彼女を捨てるつもりであり、他にたくさんのガールフレンドがいて、[41]しかも詐欺グループのリーダーであり刑務所行きになるだろうと告げたそうです。私は妻と娘をどれだけ愛しているか伝え、彼女なしでは生きていけないと分かってもらおうとしました。夫として、父親として最大の努力をすることを約束しました。しかし彼女の返信は、私が彼女を探したり、彼女の両親の家に訪れたりすれば、警察が私を逮捕するというものでした。

 これらのメッセージにより私は、なぜ警察が妻に、私からの連絡を避けるために電話番号を変えるよう言ったのかを理解しました。警察は、自分たちがついた嘘の証拠を隠しておきたかったのです。私は妻と二晩にわたってEメールを交わしました。このやりとりを後で読んだ友人の外国人たちは、日本の当局による悪魔のような悪意ある歪曲を目のあたりにして、大きなショックと無力感に襲われました。

赤羽警察署による家庭内暴力のでっちあげ、そして第二子の堕胎の発覚
 月曜に銀行に行くと、妻が660万円を引き出していることが分かりました。

 キャッシュカードを作り替えた後、私は赤羽警察署に行きました。入口で、福岡県警に伝えられた番号に電話をかけると、応答した男性に、私の家の鍵が預けられている部署まで案内されました。[42]通された部屋にはA4サイズの紙が置かれており、私が着席すると、数人の警察官が怒りと攻撃的態度をあらわしつつ部屋に入ってきました。彼らは、私が妻に暴力をふるい彼女に傷を負わせたと紙に書くよう迫りました。彼らは、証拠の写真をもっているというのです。私はこのばかげた話を拒否しました。私は妻を殴ったことはないし、その写真を見せられても私はあなたたちに協力しないだろうと断言しました。すると警察官たちは私を人殺しと罵り出しました。私の妻はお腹の子を堕胎している、それは私が妻を殴ったせいだと言うのです。

 あまりのショックに、いま自分はほんとうに日本にいるのか、グアンタナモ基地かどこかにいるのではないかとすら、私は自問しました。この警察官たちは日本の忌まわしい恥部であり、世界じゅうの人々にたいする嘘つきです。父親が日本人ではないというだけで、いったいどうして公務員が母親のお腹のなかにいる罪のない子どもを殺すことができるのか?

 妻が私の口座から金を引き出したことを私は警察官たちに伝えました。[43]その金は娘の養育費だと彼らは言いました。その金は事業で使うものであり、それですぐに車を買って依頼者に渡さねばならないと私は言いましたが、彼らは大声で恫喝するのを止めず、私がやったことは殺人事件だから、捕まりたくなければ彼らの言うとおりに書面を書けと脅してきます。

 Eメールでの妻とのやりとりで、警察が妻に吹き込んだ作り話はすべて知っていると私が告げると、彼らは私の携帯電話を無理やり奪い取ろうと暴力をふるいました。女性警察官がもっていたカメラで私の頭を殴りました。私の携帯電話は持っていかれました。

 めまいと頭痛がして、私の心は屈服してしまいました。その場から逃れる手段は他になかったのです。私は日本の警察官による誘拐の被害者で、その身代金は私の手による文書です。警察の言うとおりに、私は妻を殴ってけがを負わせたと紙に書きました。書き終わると警察官は、[44]電話番号のメモ書きとともに私の携帯電話を返してきました。私の頭を叩いたカメラで、彼らは私の写真を撮りました。電話番号は賃貸業者のもので、そちらから鍵を引き取れと警察は言いました。福岡県警は赤羽署に鍵があると言っていたのに、どうして業者がもっているのかと私は尋ねました。私は怒りがわいてきました。福岡県警が仕組んだ汚い仕事を、赤羽警察署が仕上げたのです。日本の警察官による犯罪と嘘を隠ぺいするための計画が、私の家庭内暴力をでっち上げることだったのです。

 警察署を出て二時間後に、私は賃貸業者に電話をかけました。業者は私の家の前で、ドアを開けて待っていましたが、家のなかはからっぽで、私の服が入ったビニールのごみ袋が置かれているだけでした。妻にEメールで、なぜ家の鍵を交換し、すべての家財を持ち出したのかを尋ねると、[45]前週の金曜日に、急いでそうするよう警察に言われてやったと答えました。警察から電話を受けたとき、彼女は堕胎手術の後で、まだ入院していたというのです。なぜ福岡県警が、この同じ金曜日から私の釈放を一日延長することに決めたのか、これが理由だったのです。

 私の結婚を破壊し、お腹の子どもを殺すという、福岡と東京の警察による計画は成功しました。日本という国は、日本人でない父親の胎児を殺すことを警察官に許している国なのです。これが現実です。

 友人が家のものを動かす手伝いにやってきましたが、家のなかには何もありません。友人は賃貸業者にたいして怒りの言葉を投げつけました。弁護士に電話をすると、部屋の状況を写真にとって送るよう言われました。住宅業者は、受け取っている家賃でこの部屋に居られるのはあと一週間だと告げました。しかし私は部屋に留まることを拒否し、私への犯罪行為の片棒を担いだ業者を非難しました。

弁護士をつうじた配偶者とのやりとり
 [46]妻からの最後のEメールでは、彼女はシングルマザーでいるつもりはないので、私とは二度と連絡をとらないというものでした。私の部屋の商用かばんに入っていた300万円をどうしたのか尋ねましたが、返答はありませんでした。私は〔取引でルイスさんに前払いをした〕顧客に状況を説明し、弁護士が解決すると約束しました。

 弁護士〔福岡での逮捕中の弁護士とは別〕に言われて、私は役所で離婚証明書を取得しました。私が入管から解放されたときに署名した妻との契約書も、弁護士は読みました。弁護士は、契約書では私が警察に捕まり刑務所に行ったら離婚すると定めてあり、警察に捕まるか刑務所に行くかと書かれているわけではないので、今回は事情が違う、警察が彼女を騙して、自分自身が書いた契約を彼女に破らせたことになると指摘しました。次に離婚証明書を読んで、弁護士は非常に驚きました。家庭内暴力を認める手紙を書かされた日の10日も前に、警察は離婚届を書かせていたのです。[47]つまり、家庭内暴力にかんする件があった日には、すでに私は独身だったということです。

 弁護士は妻に、七日以内の回答期限つきの書状を送り、私の口座から引き出した金の返却と、娘の養育について私との相談にすぐに応じることを要求しました。妻からはすぐに弁護士に電話がありました。弁護士によれば、妻は金を返さないと答えたそうです。彼女は960万円をもっていったことを認め、私が彼女を探すなら私を逮捕するという警察の約束を持ち出したそうです。家族はみんな、私が刑務所行きになると聞いていたので、私が解放されたことが驚きだったようです。逆に彼女は弁護士に、私が娘の養育費を月8万円支払うこと、また彼女の電話番号を私に伝えないことを要求しました。

 数日後、福岡県警の野口が電話をかけてきました。私の在留資格がいつ終わるのか気にしている、[48]次に私が直面する問題はそれだと言うのです。警察は私を超過滞在にしたいというだけの理由で、嘘をついて私の結婚を破壊し、お腹の子どもを殺し、そして妻に私の仕事の資金を盗むよう指示したのだと、私は野口に言いました。野口は、福岡県警は何も知らない、すべて赤羽警察署がおこなったことだと返答しました。

 さらに数日後、弁護士から報告がありました。警察から彼にほぼ毎日電話があり、彼が私の妻の住所を私に伝えたか、彼が妻と話をしたかと尋ねてくるというのです。弁護士はまた、妻と話した内容も伝えてきました。その話によれば、警察は妻に、私の金を持ち出し、堕胎し、私と離婚してよいと認め、彼女を私から保護すると約束したのに、彼女の新しい住所を守らなかったことについて、彼女は法廷に訴えると警察を脅したそうです。妻に住居を変更させたのは警察でした。そのために彼らは、新しい住所を弁護士に追跡されないよう保護するという約束を妻に与えたのです。

 弁護士によれば、妻はふたたび住居を変えたうえで、養育費の8万円をどうすればいいかを警察に相談しました。それにたいして警察は、金をとるのをあきらめ、すべてのコンタクトを遮断するよう彼女に助言したそうです。弁護士は、私が妻と娘を愛しており、問題なく元通りになれると、彼女を説得しました。しかし彼女は、警察の指示にしたがい自分で自分の結婚生活に傷をつけてしまったので、私のもとに戻るのを恐れていました。

 警察に支援されて、妻はまた住所を変え、弁護士が追跡できなくなってしまいました。どうすればいいか弁護士に相談しましたが、私にたいする犯罪行為を支持したのは警察だから、警察に抗議しても無駄であり、何の調査も始めないだろうと弁護士は言うのでした。

 このあとルイスさんは、彼が顧客から預かった事業資金を失ったことがきっかけとなり、彼の故郷の家族にかかわる深刻な問題へと、さらに巻き込まれてしまう。この点については、後日、以下に公開した。


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by p-dragon | 2018-09-16 09:15 | 個人のケース(証言・抗議)  

バックさんの収容やめろ、収容施設の空気の悪さを改善せよ

Posted on: 2018年 09月 15日

 9月12日付で当団体が東日本入国管理センター(牛久入管)に提出した要請文です。

  1. ハー・ヴァン・バックさんの仮放免を即時に認めてください。たとえ貴所が彼に医療を提供しているとしても、彼はすでに回復不能な健康被害を収容により受けており、彼の収容を一時でも延長すべきではないと考えます。
  2. 貴所の収容施設における空気環境を改善してください。十分な通気性の確保、空調の清掃の徹底など、被収容者の気管を害さないための抜本的な対策をとるべきです。

次も参照
牛久入管に収容されているバックさんの医療問題(2018年7月4日)

 現在、東日本入国管理センターに収容されているハー・ヴァン・バックさん(ベトナム国籍 男性)への処遇について、また収容所の環境について、問題点を指摘します。

バックさんの収容の不当性
 バックさんは出身国での迫害の恐れを抱き、難民申請をしています。入管に何を強制されても、彼は帰国できません。理由は彼が申告しているとおりです。バックさんを収容することは、彼の自由を無期限に奪うことにしかなりません。在留資格をもたないという理由だけで外国人を無期限に拘禁するというのは、はなはだしい人権侵害であり、権力の濫用です。

バックさんが収容により受けた健康被害
 バックさんは昨年5月末に東京入管に収容されたので、現在、すでに1年3か月以上も拘禁されていることになります。その間に彼は、回復不能な健康被害を受けてしまいました。
 もともと彼は気管が丈夫ではなく、収容施設の空気がよくないために、くしゃみや鼻水が止まりませんでした。しかし東京入管は彼に気管を治すための適切な診療を提供せず、睡眠薬や痛み止めといった気休めの薬しか処方しませんでした。
 今年5月には、バックさんが東京入管の医師のずさんな診察にたいして不満を表明し、適切な気管の検査を求めたことにたいして、東京入管はそれまで彼に処方された薬を没収するという、幼稚で不当な対応をしました。なおバックさんは、行政不服審査法にもとづく不服申し立てをみずから行いましたが、その一週間後に東日本入管センター(牛久入管)に移送され、東京入管への不服申し立てへの回答を受け取っていません
 牛久に移送されてから、バックさんの鼻炎は悪化し、慢性的に膿が溜まるようになってしまいました。6月中に彼は外部医療機関で慢性のアレルギーと診断され、薬により症状を抑えることはできるものの、気管内の二か所にできた膿は完治できないと告げられています。
 収容開始からアレルギーの診断を受けるまでに、バックさんは一年余りを費やしました。この期間、彼がもし自由に診療を受けることができれば、ここまで悪化することは恐らくなかったでしょう。収容は彼の自由および健康への権利を奪ったといえます。

収容施設の空気環境の問題
 収容施設の空気環境がつねに悪いことも問題です。収容施設の通気性の悪さは改善すべきです。また空調の汚れも空気環境を悪くする要因の一つです。バックさんの証言によれば、被収容者の要望で空調の清掃が入ったことはあるものの、ちょっと掃除しただけで終わりにされ、いまだに空調はほこりを撒き散らしており、気管が丈夫でない人にとって有害な環境が続いていると聞きます。収容施設の空気環境の整備は、被収容者の健康に直結する問題です。保安上の理由や、予算の問題といった口実で、抜本的な対策をとらずに放置されるべきではありません。

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by p-dragon | 2018-09-15 09:04 | 個人のケース(証言・抗議)  

トラービーさんの収容をやめろ! 医療問題と家族分離

Posted on: 2018年 08月 27日

 トラービーさんは現在、非人道的な収容に苦しめられています。詳しい状況は後述のとおりです。東京入管に抗議のはがき・FAXを送ってください!

  • ホセイン・トラービーさんの収容をすぐにやめてください。
  • トラービーさんは内臓の持病があり、収容中に急激に衰弱しています。これ以上の収容は危険です。
  • トラービーさんの配偶者は出産を控えていて、彼の代わりに彼女を支えられる身内もいません。トラービーさんの家族の人権も配慮してください。

 宛先 東京入国管理局長
  108-8255 東京都港区港南5-5-30
  FAX 03-5796-7125

 東京入国管理局に収容されているホセイン・トラービーさん(男性、イラン国籍)の即時解放を求めます。

 今年6月25日、トラービーさんは都内で警察に身柄を拘束された後、入管に無許可で居所の愛知県から東京都に移動した理由で東京入管に収容されました。しかしそれは、彼の身近に起きたトラブルについて必要書類を取得するための一時的な移動にすぎません。それだけのことで無期限に収容するというのは、あまりにひどい仕打ちであり、均衡を欠いています(そもそも仮放免者への移動の制限自体が過重で不当だと当団体は考えます)。

 くわえて、トラービーさんには二つの緊急性の高い問題があります。


1 健康状態の急速な悪化

 入管収容がはじまってから現在までの2か月のあいだに、トラービーさんの健康は急激に悪化しています。6月25日の測定では72kgだった彼の体重が、現在、56.9kgにまで下がりました。8月6日には彼は収容場のなかで倒れ、8日に高輪病院で診療を受けたと聞いています。いま彼は、被収容者用の給食をまったく食べられずに全部吐いてしまい、さらには自弁で買った栄養ドリンクですら飲めずに戻してしまいます。

 2014年にトラービーさんが名古屋入管に収容されたときには、胆のうの病気を発症し、約三か月で仮放免許可を受けました(彼は現在、結婚を理由に在留資格を求めています)。2016年には静岡県の病院で胆のう切除の手術を受けていますが、しかし彼の病気は完治していません。

 当団体の柏崎が8月半ばに面会したさいのトラービーさんは、最初の面会から一か月しかたっていないに、痛ましい姿へと変貌してしまいました。自力で歩けず、車いすで面会室に連れてこられた彼は、明らかにやせ細り、表情も憔悴していて、一か月前に見た同じトラービーさんだとすぐに気づくのが難しかったほどです。

 トラービーさんの急激な健康悪化の要因は、正確には分かりません。しかし、内臓の病気を抱え、たった2か月で15kgも体重を落とし、食べ物も飲み物もほとんど摂れない人間を収容しつづけるというのは、明らかに非人道的です。このままでは彼の生命すら危うくなるのではないかと懸念されます。


2 配偶者が出産を控えていること

 トラービーさんの配偶者は、出産を控えています。現在、もう臨月です。さらに彼女は、妊娠期特有の病気を患っています。まだ幼い娘さんもいます。しかも、彼女たちを支えられるご身内は、トラービーさん以外にいません。トラービーさんは、出産を控えていて健康状態に不安もあるお連れ合いのことを深く心配しています。

 収容による家族分離は、トラービーさん本人にくわえて、彼の家族への深刻な人権侵害です。しかも彼の配偶者が出産を控え、さらには妊娠中の病気を患っているという点で、彼のケースはより深刻です。一刻も早く彼を解放してください。


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by p-dragon | 2018-08-27 14:35 | 個人のケース(証言・抗議)  

【入管に抗議を】コンゴ難民ビキラさん 病気で手続に遅れただけで在留資格を更新せずに収容!

Posted on: 2018年 07月 16日

【7月17日追記】
 東京入管に抗議のはがき・FAXを送ってください! 次の要求項目を参考にしてください。

  • ビキラさんの収容をすぐにやめてください!
  • ビキラさんと二人のお子さんに元どおりの在留資格を認めてください! 日本生まれのお子さんを送還の対象にするのをやめてください!
  • ビキラさん一家を難民認定してください! / 他の難民受入国なみの常識的な基準で、ビキラさん一家の難民申請をきちんと誠実に審査してください!

 宛先 東京入国管理局長
  108-8255 東京都港区港南5-5-30
  FAX 03-5796-7125

 東京入管に収容されているビキラ・モロコさん(女性)は、コンゴ民主共和国出身の難民です。同じくコンゴ難民の配偶者とのあいだに、日本生まれの二人のお子さんがいます。ところが東京入管は、ビキラさんとお子さんが病気で更新手続に遅れたことを理由に、彼女およびお子さんの在留資格を更新せず、さらにはビキラさんを収容してしまいました。この非人道的な措置の不当さを日本社会に訴えたいというご要望にしたがって、私たちはビキラさんの事例を公表するとともに、ビキラさんの解放と、彼女およびお子さんにビザをふたたび出すことを求めます。

ビキラさんの事情
 ビキラさんと配偶者は、お二人ともコンゴ民主共和国で政治活動にかかわっていましたが、迫害の恐れが生じたため、2008年に来日、同時に難民申請しました。審査中に与えられる「特定活動」の在留資格をお二人は得ましたが、それから10年以上たった現在も審査中の状態のまま、難民認定を受けられずに放置されています。日本生まれの二人のお子さんも、ご両親と同じ不安定な在留資格のまま、生後ずっと暮らしてきました。

 今年1月8日、東京入管での在留資格の更新手続に指定された日に、ビキラさんと二人のお子さんは病気で寝込んでしまい、手続を受けに行くことができませんでした。4日後、ご家族4人で入管に出向いたものの、ビキラさんと二人のお子さんのビザ更新は認められませんでした(ビキラさんの配偶者は更新日が別だったため在留資格を失わず)。医師による証明書を提出したにもかかわらず、東京入管は彼女の事情を配慮することなく、1月25日、ビキラさんを収容したのです。

収容による家族分離
 家族と引き離されたことによる悲しみと不安で、ビキラさんは苦しめられています。夜も眠れず、頭や体のあちこちが痛むと、彼女は訴えています。とくに小学生のお子さんのことを気にかけていて、配偶者が仕事に出ているあいだ、こどもだけで居なければならないのが心配だと言っています。

 ビキラさんの収容は、当局が彼女を強制送還の対象として扱っていることを意味します。しかしながら、彼女は迫害の恐れをもつ難民であり、彼女を送還することは難民条約のノン・ルフールマン原則に反します。

日本生まれの子すら送還対象として扱う非人道性
 二人のお子さんが在留資格を失ったことも、深刻な問題です。現行法では、在留資格がない人は市町村の住民登録から排除され、健康保険や児童手当など、あらゆる行政サービスを受けられなくなってしまうのです。病気で更新手続に遅れただけで、ビキラさんのみならず、お子さんの在留資格すら奪うというのは、あまりに非人道的で残酷なやりかたです。

 在留資格がないというのは、お子さんたちもまた送還対象として扱われることを意味します。しかしながら、お子さんたちは二人とも日本生まれで、日本の社会環境しか知らず、フランス語も分かりません。そんなお子さんたちに日本から出ていけというのは、あまりに残酷だとビキラさんは訴えています。

東京入管への要求
 ビキラさんは、彼女への収容をすぐに解くこと、彼女とお子さんの在留資格を回復させること、そして彼女たちを難民として正当に認めることを東京入管に求めています。東京入管はビキラさんの要求を認めるべきと私たちも考えます。

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by p-dragon | 2018-07-16 00:34 | 個人のケース(証言・抗議)  

東京入管に収容されているペルー国籍日系三世男性の医療問題

Posted on: 2018年 07月 14日

 東京入管に収容されているペルー国籍の日系三世男性は、2017年10月17日、仮放免許可の更新を認められず、東京入管に再収容されました。この男性は、入管の医療放置のせいで百日咳をこじらせ、さらには収容による体力低下とストレスが原因とおもわれる顔面麻痺を発症しました。しかし、それでも東京入管は彼を解放しようとしません。私たちは男性の要望を受けて、彼が受けている不当な処遇を公表するとともに、彼の収容をすぐに解くことを当局に要求します。

1 鼠経ヘルニア
 最初の収容(約3年半前に仮放免)以来、男性は鼠経ヘルニア、いわゆる脱腸を患っています。仮放免者は就労を禁止されるため、手術に必要な費用が工面できず、そのうちにふたたび収容されることになってしまったと男性は言います。

2 百日咳
 男性は昨年、百日咳にかかりました。おそらく初期の医療放置のため、いまも喉に異常が残っています。

 2017年11月なかばごろ、男性は強い喉の苦しみを発症しました。当初から症状は重く、うまく呼吸ができずに倒れてしまうこともありました。入管の医師は、ぜんそくだ、かぜだ、などと雑な診断しかしませんでしたが、男性の喉の異常はいつまでも治りませんでした。入管職員も、男性による病状の訴えを真剣に聞こうとしませんでした。

 発症から2か月半がすぎた今年1月23日、ようやく男性は東京高輪病院での受診を認められます。そして2回目の診療となる2月1日、彼は百日咳にかかっていたことが判明します。その後に処方された薬は効果があり、男性の容態は回復に向かいました。

 しかしながら、男性の喉は完治していません。いまだに緑色のたんが出てきます。さらには、ものを飲み込んだ後に喉のあたりが痛くなるというので、喉や食道が傷ついているのかもしれません。しかし入管は、喉の状態がさらに悪くならないかぎり病院には連れて行かない旨、男性に伝えているそうです。なぜ症状が悪化する前に彼の収容を解かないのでしょうか。

3 顔面麻痺(ベル麻痺)※

(9月11日追記: 5月以降の診療記録の開示により、顔面麻痺の原因は「水痘帯状疱疹ウイルス」ではなく「単純ヘルペスウイルス」と判明。病名は「ラムゼイ・ハント症候群」ではなく「ベル麻痺」となるらしい。どちらも症状、治療法は類似している。完全麻痺の場合、完治しないことがある点も同様。以下の関連する記述を修正。)

 今年1月ごろから、男性は喉の異常にくわえて、体のしびれなど身体機能の低下を訴えていましたが、4月に入ると、左顔面の麻痺を発症するに至りました。左のまぶたが閉じず、眼球が乾燥するので目薬をさす必要があります。また、左頬の筋肉が動かないため、口の左側も開きません。

 東京高輪病院の耳鼻科医師は、男性の症状を、最終的には単純ヘルペスウイルスに起因する左顔面の麻痺(ベル麻痺)と診断しました。このウイルスによる顔面麻痺の症状は、疲れやストレスにより免疫力が低下することで発症しするようです。完全麻痺に達すると、完治しにくいそうです。実際、発症から数か月がすぎても、男性の症状はあまり回復しておらず、いまだに彼は左まぶたを閉じることができません。

 この顔面麻痺は、免疫力の低下が原因です。百日咳との直接の因果関係はないとしても、病気を長期にわたって放置されたことを含め、劣悪な収容環境のせいで健康を崩し、体力を消耗させていったことが影響していると言えます。上に説明したような収容施設でのひどい待遇がなければ、男性がこのような完治するかも分からない顔面麻痺にかかることは恐らくなかったでしょう。東京入管は男性をこれ以上苦しめるのをやめ、一刻も早く男性の収容を解くべきです。

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by p-dragon | 2018-07-14 12:56 | 個人のケース(証言・抗議)