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【緊急抗議呼びかけ】死にそうなほど衰弱しているトラービーさんの即時解放を!

Posted on: 2019年 03月 09日


 東京入管に収容されているイラン国籍ホセイン・トラービーさんは、いま非常に危険な状態です。いつ死んでしまってもおかしくないくらいに衰弱しています。詳しい事情は、後述のとおりです。

 この殺人的な収容をやめさせるため、どうかご協力ください! 以下のメッセージを東京入国管理局長に送ってください
 
  • イラン国籍ホセイン・トラービーさんの収容をすぐにやめてください。
  • トラービーさんは、12月末から2月末のあいだに3回も意識を失い、何も飲食できず、排泄のコントロールすらできないほど衰弱しています。このままでは本当に死んでしまうかもしれません。収容のストレスが原因であることは明白です。

 宛先 東京入国管理局長
  108-8255 東京都港区港南5-5-30
  FAX 03-5796-7125


 東京入国管理局に収容されている、イラン国籍男性ホセイン・トラービーさんは、収容がはじまってから、健康が急激に悪化しています。人命にかかわる、とりかえしのつかない事態が、いつ起きてもおかしくない状況です。本人の希望により、彼の状況を公開し、彼の収容継続への抗議を呼びかけます。なお先月までのトラービーさんの状況については、以下の記事もご参照ください。

 トラービーさんの収容をやめろ! 医療問題と家族分離 (2018年8月27日公開、2019年2月10日追記)


1 トラービーさんの症状

 2018年6月末に収容がはじまってから、トラービーさんの健康は急激に悪化しました。最近は、何度も意識をなくしており、誰がどうみてもきわめて危険な状態です。本人の証言および彼に見せてもらった診療記録によれば、経緯は以下のとおりです。

  • 収容開始から食事がほとんどとれず、自弁で購入した栄養ドリンクすら吐いてしまう。2018年6月末から8月末の2か月間に、72kgから56.9kgへと体重が激減、2019年1月には55kgに。
  • 2018年8月頃から、痛み止めなどの、気休めの薬を大量に処方されている。
  • 8月以降、面会室にくるさいには車いすを使用。
  • 8月6日に収容施設内で倒れ、8日には東京高輪病院で診療を受ける。
  • 10月初旬以降、へそから常に出血するようになる。11月と12月に高輪病院外科で診察・検査を受け、おなかの手術創(過去に胆のうの手術をした)からの感染の疑いありと診断され、塗り薬により症状改善。しかし全般的な健康悪化は止まらず。
  • 12月末に意識を失って倒れ、約24時間の記憶がない。

 これだけでも明らかに危険といえますが、今年1月末からトラービーさんはさらに衰弱し、より危険な状態に陥っていきます。

  • 2019年1月27日夜から28日未明のあいだに、ふたたびめまいで倒れ、意識喪失。2, 3日寝込み、そのあいだの記憶がない。
  • 2月頃から、血圧が異常に低下。上の値(収縮期血圧)が70以下なのに、脈拍が120のときもあった。
  • 2月20日に3度目の意識喪失。数日間寝込み、やはりその間の記憶がない。
  • 意識回復後、25日ごろまで「あーうー」としか声が出せず、それ以降も3月はじめまで、かすれ声しか出なかった(それ以前から、話し声はつねに弱弱しい)。
  • 3度目の意志喪失のあと、本格的に、水以外、何も飲食できなくなり、薬も飲めなくなった。入管が食事のかわりに、液体の栄養剤を提供するようになった。しかし職員に強く促され無理して飲んでも、数秒程度で栄養剤を吐き出してしまう。その様子はビデオカメラで撮影されている。
  • 3度目の意志喪失のあと、排泄をコントロールできなくなり、尿をもらしてしまうようになった。入管は大人用おむつを彼に支給している。
  • 3月13日夜、本人から電話。辛い、耐えられない、また面会に来てほしい、ということを繰り返し言っていた。終始、ヒィヒィと辛そうな声で話していた。【3.14 追記】

 以上のように、収容開始直後から、トラービーさんの健康は急激に悪化しています。東京入管はきちんと彼に医療を提供していると主張するでしょう。しかしながら、へその出血以外は、トラービーさんの症状はなにも改善しておらず、それどころか、現状は命すら危ぶまれる危険な状態だと言えます。

 これほどに急激で深刻な健康悪化は、収容のストレスのせいか、入管で処方される気休めの薬(痛み止めや精神安定剤など)を長期間飲んだことによる副作用か、あるいはその両方のせいとしか、説明がつきません。すぐに収容をやめること以外に、解決策は考えられません。


2 東京入管の対応

 トラービーさんはもともと仮放免の状態でしたが、入管に無許可で居所の愛知県から東京都に移動したという、たったそれだけの理由で、2018年6月末に東京入管に収容され、上のような命にかかわる危険な状態に陥っているのに拘禁されつづけているのです。

 今年2月、3度目の意識喪失から、トラービーさんは薬も飲めなくなり、栄養剤すら胃が受けつけずに吐き出してしまいます。それにもかかわらず、ある入管職員は、トラービーさんが摂食拒否していると見なして「ちゃんと薬や栄養剤を飲まないと(反抗と見なされて)仮放免に響くぞ」という趣旨の脅しを彼にかけたそうです。

 いまのところ入管の対応は、栄養剤を提供する(飲めないが)、大人用おむつを支給する、監視カメラつきの個室に移動させる、これだけです。とりあえず様子見という感じで、とても事態を深刻に捉えているとは言えません。こんなにトラービーさんが衰弱しているのに、まだ収容しても大丈夫だと考えているのでしょうか?

 入管収容者は「まるで自分たちは人体実験されているようだ」という感想をもらすことがあります。実際、トラービーさんへの入管の非人道的な対応は、まるで彼がどこまで収容に耐えられるかを試しているかのようです。日本の731部隊やドイツのナチスによる人体実験すら連想させられます。


3 家族分離

 トラービーさんが収容されたのは、彼の配偶者(永住者)が第二子の出産を控えている時期でした。2018年9月、配偶者は第二子を出産します。彼の家族は、産まれてまもない赤ちゃんを抱え、父親なしで、苦しく不安な生活を強いられています。

 今年2月ごろ、トラービーさんの娘(小学生)が「父親がいない」と同級生にいじめられ、けんかになり、いじめてきた子の親に警察を呼ばれるという、ひどいできごとがあったそうです。いじめ自体に怒りが沸きますが、つけ加えれば、これも入管が作り出した家族分離という状態のなかで起きたことです。入管はこのような家族への影響も考慮すべきです。

 トラービーさんがもし死んでしまえば、残された家族は深い悲しみと絶望、そして父親なしの苦しい生活を強いられることになります。命までは失わないとしても、家族のところに戻っても、完全に回復せずに後遺症が残ってしまう恐れがないとは言えません。収容が長引けば長引くほど、こうした危険性は高まります。東京入管は、トラービーさんにたいする殺人的な収容をすぐにやめるべきです。

 
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by p-dragon | 2019-03-09 08:29 | 個人のケース(証言・抗議)  

入管収容中の難民ディサナヤケさんの手記

Posted on: 2019年 03月 02日

 東京入管に収容中の難民ディサナヤケさんから、手記を託されました。入管が彼を収容しているせいで、精神障害を患っている配偶者と、生後まもない娘が、父親のいない不安な生活を強いられています。家族が「万が一ひどいめにあって、新しいニュースになってしまう前に」とディサナヤケさんが心配していのは、そのためです。

 参照 入管収容中の難民ディサナヤケさん「私を家族のもとに返してください」


手記原稿(クリックで拡大)
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 12-02-31 [2019]

 中国のパンダの誕生には大きいニュースが出てテレビで世界を喜ばせる時、生まれたばっかりの私たちの赤ちゃんは幸せになれないため、奥様と私は、ばらばらで苦しんでいる。

 フランスでは難民の黒人が、自分よりも〔自分の命をかえりみず〕赤ちゃんの命を助けたことがニュースになり、大統領がビザを認めたりした〔昨年5月26日にパリで4階から落ちそうになった幼児を救出したマリ移民が市民権を与えられるという報道のことか〕。けれど日本の入管は、新しい命を作ってくれた〔当時〕妊娠7か月の奥様を放っておいて出ていけと私に言った。そのことが信じられない。

 毎日テレビのニュースのなかで、子供をいじめたり、殺したりすること〔児童虐待の報道か〕が流れるとき、私たちは子供が欲しくて何年もまちつづけた。自分の命をかけてがんばって生まれてくれた、元気な娘さんを、幸せにさせることができなくて、困っている。

 日本国では、赤ちゃんとお母さんを助けるためのシステムが作ってあるから、心配することはないと思っている人たちは、お父さんとお母さんの愛が必要のないロボットと人間が一緒だと思っているのかもしれない。

 家族をばらばらにして、赤ちゃんと奥様が、万が一ひどいめにあって、新しいニュースになってしまう前に、〔二人を〕安心、安全にさせるために、〔二人が私と〕いっしょに生活することを、〔入管は〕いつ与えるだろう。

 私は何のため? いつまで〔入管収容施設の〕中にいるのだろう。先が見えないせいで、私は精神的に(physically-mentally〔肉体的にも精神的にも〕)9か月〔の収容期間〕のあいだにだんだん弱くなっていることが、いまよく分かっている。そうなったぼくが、生まれた赤ちゃんのために何ができるだろう。でも毎日暗くなると、やわらかい赤ちゃんがそばにいるように感じ、赤ちゃんのにおいがします。いままで娘さんの写真しか見たことないから、かわりに枕しかない。

 私と妊娠した奥様、生まれたあとの赤ちゃんのこと、心配して助けてくれる優しいボランティア〔の皆様〕、柏崎様、ほんとうにお世話になりました。ありがとうございます。

 日本政府、病院の皆様、心優しい日本人、国の〔スリランカの〕なかまたち、ボランティアさんたち、助けてあげたいという気持ちのある皆さん、心から感謝します。どうもありがとうございます。

 ビプラ・ディサヤナカ(スリランカ)

註 2ページは当団体、柏崎への私信のため省略。なお転記のさい、最低限、語句の追加や修正を施しています。


by p-dragon | 2019-03-02 10:57 | 個人のケース(証言・抗議)  

日本生まれの笠原カルロス圭一さんの長期収容

Posted on: 2019年 02月 14日

 日本生まれの笠原カルロス圭一さんは、国外退去を命令され、4年近くも入管に収容されています(現在、牛久入管に収容中)。今年1月、カルロスさんはうつ病との診断を受けました。このたび当団体が牛久入管所長に送った意見書を、ご本人の希望にそって公開します。

***

2019年2月14日
東日本入国管理センター所長 様

笠原カルロスさんの長期収容にかんする意見書

 笠原カルロス圭一さん(1993年生)は、2015年4月に(当初は東京入管横浜支局に)収容されてから現在にいたるまで、3年10か月もの長期にわたって入管に身体を拘束されており、現在までに彼がおこなった仮放免申請は15回に及びますが、ことごとく不許可にされています。

 以下に挙げる理由により、この長期収容は笠原さんにたいする許容しがたい人権侵害であると考えます。したがって、彼の収容を即時に解くことを要請します。

1 長期収容による人権侵害
 笠原さんが受けているのは、すでに4年半をこえ、しかも今後いつまで続くかも分からない拘禁です。この長期収容は、送還執行のための一時的措置という入管収容の建前とは明らかに矛盾しており、そして在留資格がないという理由だけで人間に強いるにはあまりに厳しく残酷なものです。

 笠原さんは鼻の骨が曲がってしまっているため、手術が必要です(鼻中隔湾曲症)。しかし彼は、収容のためにそれができず、かといって入管が彼に必要な医療を提供するわけでもありません。この点で、彼の収容継続は身体的な拷問にもなっています。このことに関連して、国連の拷問委員会が日本の入管収容にかんして表明している懸念のなかに、適切な医療へのアクセスの欠如が含まれている点も想起されるべきです。

2 笠原さんにたいする退去強制命令のはなはだしい非人道性
 笠原さんは日本国籍をもたないとはいえ、日本で生まれ育った、日本社会の実質的な一成員であり、彼が現実に属していると言える国は日本以外にありません。彼を送還対象者として収容しつづけることは、はなはだしく非人道的な措置です。

 私たちは本人から次のように聞いています。笠原さんは、日本で、ドミニカ国籍の父親とコロンビア国籍の母親のあいだに生まれた、日系三世です。永住資格をもっていましたが、両親の離婚にともない、何度か母親とともにコロンビアに渡航したことを理由に、在留資格を一年更新の定住に格下げされてしまいました。なお、彼の父親と家族は日本に暮らしつづけている一方で、彼の母親は再婚のためドイツに移住しており、ドミニカにもコロンビアにも彼の生活を支援してくれる人はいません。

 その後、2014年5月、20歳のときに、笠原さんは大麻所持の容疑で逮捕され、懲役6か月、執行猶予3年の判決を受けました。刑務所には入らなかったものの、この判決を理由に在留資格を更新されず、自動的に非正規滞在者とされてしまったことにより、2015年4月から彼は入管に収容されています。

 日本で生まれ育った笠原さんが、法的地位の違いという理由だけで、一度でも違法薬物所持の罪を犯せば更正の機会も与えられずに国外追放されるというのは、あまりに不公平で非人道的です。しかも無期限の入管収容は、笠原さんにたいする実質的な二重刑罰といえます。これこそ、国籍に関係なく保障されるべき基本的人権を無視する、不法な措置です。笠原さんの収容を直ちにやめるべきと考えます。

SYI(収容者友人有志一同)

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by p-dragon | 2019-02-14 20:47 | 個人のケース(証言・抗議)  

入管収容中の難民ディサナヤケさん「私を家族のもとに返してください」

Posted on: 2019年 01月 22日

 スリランカ出身の難民申請者ディサナヤケ・ムディヤンセラゲ・ヴィプラさん(1970年生)は、2018年5月22日から東京入管に収容されています。彼は本国で迫害の恐れがあるためだけでなく、日本にいる家族のためにも、日本を出ていくことはできません。収容のせいで、彼は娘の出産に立ち会うことすらできず、いまだ一度も娘に会えていません。収容期間も、すでに7か月をこえています。

 この残酷な仕打ちに耐えかね、ディサナヤケさんは彼の境遇を日本社会に広く知らせ、入管の不当性を訴えることを決意しました。

妊娠中の配偶者から引き離す
 ディサナヤケさんは、出身国スリランカで政治的立場を理由に暴行や脅迫を受けるようになり、身の危険を感じ、2008年に日本に渡ります。その後、彼は2016年に千葉県在住の日本人女性と知り合い、2017年10月31日には彼女と結婚し、さらには彼女の妊娠が発覚します。ところが2018年5月22日、東京入管はディサナヤケさんを難民として認めない旨を伝え、同時に彼を収容してしまいました。

 同年8月28日には、二人の娘が生まれましたが、それでも入管はディサナヤケさんの収容を解こうとしません。娘の出生届を提出するよう彼に求めたにもかかわらず、入管は彼の仮放免を許可しないのです。

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(ディサナヤケさん、配偶者の女性と)

健康に問題のある配偶者に一人での子育てを強いる
 配偶者の女性は、過去に受けた家庭内暴力が原因で、精神障害を患っています。彼女は精神的ストレスがかかると、呼吸困難や抑うつ症状、希死観念などを発症し、ときにはめまいを起こして倒れてしまう場合もあります。彼女が妊娠中、ディサナヤケさんとの面会のため東京入管に訪れたときには、施設内で倒れたこともあります。それにもかかわらず、入管はディサナヤケさんを収容することによって、生後まもない娘を一人で育てることを彼女に強いているのです。

 入管に提出するために、娘の出生証明書の取得手続をとることだけでも、彼女には大変な仕事でした。彼女は体力があまりなく、自宅から遠い東京入管まで娘を連れて行くことが難しいので、ディサナヤケさんは生後5か月になる娘にいまだ一度も会えていません。

 女性は、出産前に東京入管を訪れたとき、ある職員がディサナヤケさんについて「犬や猫じゃないから餌は与える」というあまりに心ない発言をしたことが忘れられず、許せないと証言しています。一刻も早くディサナヤケさんを家族のもとに戻してほしいと、彼女は訴えています。
 
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(配偶者と娘)

ディサナヤケさんの怒り
 ディサナヤケさんは、彼を難民として認めないことだけでなく、このあまりに非人道的な家族分離についても、入管にたいして憤っています。結婚も、配偶者の妊娠も、すべて彼は入管に届け出ました。2018年2月および3月に、入管職員が彼の住居を訪問調査したときにも、配偶者の女性の妊娠のことを入管に知らせました。それを分かっていながら、入管は自分を収容し、いまだに解放しない、どうしてこんなにも残酷なことを入管はできるのかと、ディサナヤケさんは怒りをこめて抗議しています。

 東京入管は一刻も早くディサナヤケさんを解放し、彼の合法的在留を認めよ!


by p-dragon | 2019-01-22 14:58 | 個人のケース(証言・抗議)  

仮放免中の友人の自由な意思表現を「反政府活動」と呼ぶ東京入管

Posted on: 2019年 01月 15日

金毅中さんの自由への不当な介入にたいする抗議

 私たちの友人、金毅中さん(韓国籍)は、難民申請者であり、仮放免許可を受けています。昨年12月10日、金さんは仮放免許可の更新のため東京入管に出頭したさい、職員に彼の自由を否定する不当な暴言を浴びせられました。これにたいして私たちは厳重に抗議し、当局が金さんにたいして二度と不当な介入をしないよう抗議するものです。

 上記の更新のさい、職員は仮放免の許可条件などにかんする質問を仮放免者にします。しかしこの日、金毅中さんは、そうした通常の質問だけでなく、次のようなことを職員に言われたと聞いています。いわく当該職員は、金さんが彼の住所地である茨城県内における原発反対や戦争・改憲反対の駅頭宣伝活動に参加していることについて、なぜ金さんが日本国民ではなく退去強制命令を受けているのに「反政府活動」をするのかと、さも金さんがしてはならないことであるかのように尋問したそうです。

 日本国憲法のもと、個人の表現の自由は国籍にかかわらず保障されるべきであり、政治活動についても、国の「政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等」(つまり公職等)でないものであれば、外国人の参加は制限できないはずです。金さんは自らの思想・信条に基づき、茨城県内での街頭宣伝や反戦行動のほか、他県での抗議行動などにも参加しています。他県に出る場合には、仮放免遵守事項にしたがって、保証人のご理解と協力の下、毎回「旅行許可証」を得るために品川入管に出向き、あらかじめ旅行の許可を得て行動しています。以上のような金さんの行動は、彼の政治的意見の平和的手段による表示に他ならず、また入管が仮放免者に課す移動制限に抵触してもいないので、入管が口をはさむ筋合いのまったくないことです。

 しかも、正当な政治的意思の表現を「反政府活動」呼ばわりする当該職員の権利感覚には、あぜんとさせられます。当該職員は、政府あるいは「お上」にたいして市民が異論を言うこと自体が「反政府的」だという、前時代的な役人の感覚をもっているのではないかと疑われます。ひいては、このような発言がポロっと飛び出してくる入国管理局という組織そのものが、そのような前時代的で反人権的な感覚を温存しているのではないかとまで考えてしまいます。

 東京入国管理局長におかれましては、金毅中さんに上記の発言をおこなった職員を処罰し、二度とこのような発言がないよう全職員に教育、周知することを、強くお願い申し上げます。

2019年1月15日

SYI(収容者友人有志一同) / 牛久入管収容所問題を考える会


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by p-dragon | 2019-01-15 06:26 | 個人のケース(証言・抗議)  

牛久入管は脇山さんにたいする脅しをやめろ

Posted on: 2019年 01月 07日

 東日本入管センター(牛久入管)の収容者が昨年、仮放免を求める集団要請を発表しました。

 牛久入管の被収容者による集団要請 あなたも賛同を! (2018.11.12 ウェブ公開)

 この集団要請の起草者の一人、脇山順次さん(ブラジル国籍)は、いま牛久入管による強制送還の脅しを受けています。ご本人の希望により、ここに彼の事情を公表します。


ハンガーストライキに参加してブロックを移される

 脇山さんは2017年2月から入管に収容されています。彼は2018年10月、長期収容に耐えかねた他の収容者とともに、当局にたいして仮放免を求める集団要請を作成、発表しました(当団体が要請文をウェブで公開しています)。要請文には当初、彼が属している1Aブロックの収容者が名を連ねましたが、その後、他のブロックも参加を表明しています(注 異なるブロック同士では対面でコミュニケーションが取れない)。

 その一方で2018年11月20日には、いくつかのブロックが長期収容に抗議してハンガーストライキを開始します。脇山さんもハンストに参加しましたが、当局は彼を別のブロックに移しました。移動後も脇山さんはハンストを続けましたが、12月6日に倒れてしまい、医務室で点滴を受けた後、やむをえずハンスト継続を断念しました。

 ハンストなど抗議行動への対抗措置として、入管は抗議者を別のブロックに移すと言う手段をよくとります。これは入管の言い方では、収容施設の「保安」のためですが、要するに、抗議者が仲間を増やして結束を強めるのを防ぐためと思われます。裁判なしの無期限の身体拘束という、抗議の根本的な原因には、入管は目を向けようとしません。

強制送還を予告される

 12月10日、牛久入管は代理人をつうじて、脇山さんに「送還予定時期通知書」を送りつけます。これは、対象者が退去強制命令に異議を申し立てるなどの法的手続きをとらないかぎり、所定の期間後に強制送還を実行するという通知です。脇山さんは、2月の第二週に送還すると予告されました。現在、彼は法的対処の準備中です。

 なぜこの時期に脇山さんが「送還予定時期」を通知された理由は分かりませんが、脇山さん自身は、これがハンストへの対抗措置ではないかと疑っています。通知のタイミングをふまえれば、彼の疑念は自然に湧いてくるものといえます。


 このように入管は、長期収容に苦しむ人間の訴えに耳を傾けようとせず、ブロックの移動や強制送還の脅しによって応えるのです。しかし脇山さんはこのような脅しに屈せず、たたかい続けようとしています。彼に連帯して、私たちは牛久入管に、脇山さんへの脅しをやめ、彼の収容を一刻も早く解くことを要求します。


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by p-dragon | 2019-01-07 11:08 | 個人のケース(証言・抗議)  

ダミカさんの医療放置 牛久入管に再度の抗議

Posted on: 2018年 11月 21日

【参考記事】

2018年11月21日
東日本入国管理センター所長 様

被収容者ダミカさんにかんする抗議と要請

 現在、貴所に収容されている、スリランカ国籍ダミカ・パティラジャさんの処遇にかんして、私たちは今年6月28日、抗議をしました。ところが、それからほぼ5か月がたつ現在、いまだにダミカさんの処遇はほとんど改善されておらず、彼の収容も解かれていません。そのことに怒りをこめつつ、二点にわたって抗議および要請を申し上げます。

1 医療放置
 6月28日の抗議文で私たちは、ダミカさんの肛門の病気は、脱肛や直腸脱といった症状が疑われ、そうした症状の診断ができる医師に診察させる必要があると伝えました。その後ダミカさんは、貴所の非常勤医による診察を受けた後、9月4日ごろに土浦市の野上病院で診察されたと報告しています。しかし彼によれば、同病院の医師は、患部を指で押せば戻るから問題ないという趣旨のことを言って、特別な治療の必要性を認めませんでした。

 しかしその後も、ダミカさんの症状は自然回復するどころか、悪くなる一方です。現在、彼は体重が46kgにまで下がったといいます。最近は頭痛がひどく、また咳に血が混じることもあるそうです。さらには歩行にすら困難をきたすようになっており、当団体が今月9日に彼に面会したさいには、彼は非常にゆっくりとしか歩けず、しばらく座ってから立ち上がるさいに眩暈がするので、立ち上がるのにも時間がかかるありさまで、車いすや松葉杖の使用を申請しているのに許可されないと言っていました。そして彼は相変わらず、肛門の痛みのせいで固形物を食べられずにいます。最近では医師に栄養ドリンクも処方されているようですが、それが気休めにすぎず、彼の健康状態の悪化を止められていないのは、上記のとおりです。

 以上の経緯をふまえれば、彼の肛門の病気を過去の診断にもとづいて放置していることが間違いであると考えるのが、もっとも合理的です。彼に適切な医療を提供しないことを強く非難するとともに、すぐに彼を脱肛や直腸脱の診断が可能な医師に診療させるか、あるいは即時に解放することを求めます。

2 長期収容

 ダミカさんの入管収容は2016年2月2日に始まっているので、すでに彼は2年9か月以上も収容されていることになります。しかも彼が上述の肛門の病気に苦しんでいるのは昨年からです。収容の継続は、ダミカさんにたいする拷問でしかありません。すでに彼の容態はいちじるしく悪化していますが、さらに悪化すれば、命にかかわる事態に発展するかもしれません。一刻も早く彼に仮放免を許可すべきです。

 以上二つの見地から、貴所のダミカさんへの処遇に強く抗議し、彼への適切な医療の提供または仮放免を即時に決定するよう要求します。

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by p-dragon | 2018-11-21 14:34 | 個人のケース(証言・抗議)  

アフリカ難民ルイスさんの証言 1

Posted on: 2018年 11月 03日

アフリカ難民ルイスさんの証言
 1 虐殺を逃れて

 1 虐殺を逃れて
 2 日本にたどりついたのに
 3 ふたたび迫害のターゲットに

 日本の入管および警察の権力濫用によって家族を引き裂かれたルイス・クリスチャン・ムバラさんの手記の日本語訳を、先日に公開した。

 参考記事 「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発 (2018年9月16日)

 くわえて、もともとルイスさんはアフリカからの難民である。しかし入管は彼を難民認定していない。彼は自分を強制送還しようとする入管の不当性を明らかにするため、自分の経験を日本の市民に知らせたいと希望している。以下は、ルイスさんの手記のうち、彼の難民としての事情にかんする部分の翻訳である。

 ルイスさんはカメルーンに生まれたが、紛争による避難先の中央アフリカ共和国での養子縁組により、中央アフリカ市民の身分をもつ。彼は2001年の中央アフリカでのクーデター未遂に巻き込まれ、想像を絶する虐殺から逃れるため、命からがら日本に逃げついた。

 ところが来日から約10年後、ルイスさんは 巻き込まれた事件のせいで、彼の中央アフリカの家族、親族が殺され、ルイスさん自身は自分の犯していない罪をなすりつけられ、刑務所送りになるまでの、悲劇的な経緯が記されている。しかもこの事態は、日本の警察が彼を離婚に追い込み、彼の事業資金を配偶者が無断で持ち去ることを警察が容認したことが、間接的な要因になっている(警察の件については上記記事の第3節を参照)。

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 [1]この手記を書くよう促してくれたボランティアに敬意を表しつつ。私はカメルーン出身のムバラ・ルイス・クリスチャン(1981年生)といいます。
 私の家族は巻き込まれた政治的問題のため、中央アフリカ共和国領に避難しました。詳しい事情については分かりません。当時私は5歳くらいでした。その後、両親と兄、姉は難民申請するためにヨーロッパに発ちました。私は、中央アフリカの首都ベンギの一地区に住む父の友人――二人ともムバヤ(Mbaya)という氏族に属していました――のところに残されました。私は彼の養子となり、アマドゥ・ウスマンというイスラム教の名を与えられました。こうして私は中央アフリカで育てられたのです。16歳のころ私は全国リーグに出るフットボール選手となり、そして19歳でナショナル・チームに選出されました。
 私が12歳のころ、中央アフリカでは政治的、軍事的な対立が生じ、氏族間の内戦へと発展しました。戦争の構図が変わるごとに、新たな氏族と指導者が権力に就き、昨日の友が今日の敵になるということが繰り返されました。とはいえ、こうした政治的側面にかんして私がきちんと説明できるわけではありません。私が知っているのは、毎日、身近なところで誰かが死んでいたということです。銃で、あるいはエイズをうつすことによって、人が人を殺していました。

2001年、クーデター未遂から虐殺へ
 2001年5月28日〔ルイスさんが20歳になる少し前〕に起きた、パタセ大統領の政権にたいするクーデターに、私の中央アフリカの家族は直接に関与していました。[2]クーデターが未遂に終わると、すぐに政府軍が、怒りと復讐欲に満ちた報復をはじめました。私の住んでいた場所も政府軍の標的にされ、14歳以上の男性はすべて殺され、すべての女性がレイプされました。私は幸運にも、両親とともにウバンギ川の向こう側、コンゴ民主共和国領に逃げることができました。
 二、三週間後に家に戻ると、居間で4人の兄弟の遺体を発見しました。私たち家族は非常に大きな衝撃を受けました。最悪だったのは、兄弟を家の敷地内に葬らねばならなかったことです。死体を墓地に運ぶ途中で政府軍に見つかれば、反乱勢力として捕まえられてしまったでしょう。そうなれば兵士たちによる最悪の身体的拷問を死ぬまで受けつづけたでしょう。そのような危険を犯すことは誰もしませんでした。
 政府軍と反乱勢力との戦闘は、私の家族や親族の多くが属していた氏族であるヤコマ(Yakoma)をめぐるものとなりました。

【参考資料】国連難民高等弁務官(UNHCR)短報(2001年6月29日)抄訳

中央アフリカ共和国 数万人が避難

 中央アフリカでは、先月のクーデター未遂にたいして政府が反対派の弾圧を始めて以降、数万人が避難のために自分の故郷を離れている。およそ6万人から7万人の国内避難民が、中央アフリカの首都バンギの南部にいる。それ以外にも1万4千から7千万人が、コンゴ民主共和国の北西の端にある赤道州に逃げている。

 ……クーデター勢力によるバンギのアンジュ=フェリックス・パタセ大統領邸への攻撃は、多数の死者を出したと報じられている。その後、報道によれば兵士たちは、〔クーデター指導者〕アンドレ・コリンバ元陸軍参謀長が属するヤコマ民族を狩りまわっている。

ルイスさんの兄がクーデターの中心人物として報じられる
 その後、銃撃により負傷したジャデル=ブダヤ将軍(François Ndjadder-Bedaya)が三週間の意識不明をへて死亡したと報じられました。政府によれば、将軍はクーデターの夜、勇敢にも反乱者たちに反撃するなかで、私の二人の兄のうち一人に撃たれたというのです。[3]この報道は国営のラジオおよびテレビで流されたので、私たちはみなそれを聞きました。怒りが国じゅうに広がり、政府軍の全兵士が敵を狩り出し殺すために出動しました。死体がそこかしこに転がりました。

 私の親しい人々がもの言わぬ死体となり、悪臭を発しながら腐っていくさまを思い出すと、耐えがたい苦しみに襲われずにはいられません。いまだに、いまだに私は、あの日々を忘れようと苦しみもがいています。

コンゴでの避難生活

 クーデター未遂がもたらした一連の帰結を見れば、私の中央アフリカの両親がもはや中央アフリカには暮らせないことは明白でした。

 私たちが一時的な隠れ家を見出せる場所は、コンゴ民主共和国のみでした。しかし不幸にも、私たちが居た、中央アフリカの首都ベンギの川向うにあるコンゴ領ゾンゴという都市は、ジャン=ピエール・ベンバの系列の反乱組織バニャムレンゲの民兵が支配する地域でした。私たちはまたもや戦時にある国に暮らすことになったのです。そこでの生活は地獄でした。あらゆる種類の支援を反乱勢力に提供しなければならず、それを拒んだなら兵士に連れ去られたのです。〔ベンバはモブツ失脚後に結成されたコンゴ解放運動MLCの指導者、2002年の和平後2006年まで副大統領。バニャムレンゲは、本来はコンゴ東部のルワンダ系の人々を指す語だが、1996年のコンゴ戦争以降、さまざまなバニャムレンゲの民兵組織がさまざまな勢力に結びついて活動した。〕

 私たちはコンゴに約一年間滞在しました。その間、さまざまな勢力どうしの争いにより、私たちの不幸は日々より大きくなっていったので、新しい住みかを探さねばならないと考えるようになったのです。コンゴは地獄でした。とはいえ、コンゴ領内を移動することは、大変なだけでなく危険なことでした。

避難先の選択
 [4]希望がもてる唯一の避難手段は、中央アフリカ共和国の首都ベンギのどこかの大使館でビザの取得を代行してくれるブローカーを使うことだけだったのです。しかしほとんどの大使館は政府軍に警備されており、全来訪者をチェックしていました。彼らに疑わしいと見なされた者が捕まると、そのまま行方不明となり、数日後に死体となって道端で発見されるのです。私たちの近くにあった唯一の大使館が日本大使館であり、しかも幸運なことに、そこは反政府勢力の支配区域に位置していたので、政府軍に警備されていませんでした。

 養父アマドゥ・エケウに授けられたアマドゥ・ウスマンというムスリム名のおかげで、ブローカーは私のパスポートを簡単に取得することができました。私たちは中央アフリカ・ベンギの日本大使館を訪れ、すぐに私のビザを取得すると、家族の車二台を売り払ってから、川を渡ってコンゴ領に戻りました。

 ここからが私の逃避行でもっとも危険な部分、すなわち、誰にも捕まらずに空港にたどり着いて飛行機に乗るまでの過程です。コンゴ民主共和国領内では、もっとも近い空港はすら二千キロも離れていました。[5]そこにたどり着くまでには、コンゴのさまざまな反政府勢力や政府軍のいる地域を通過しなければならず、そうした地域では中央アフリカ人もまた戦闘に加わっていたのです。そうした場所にいれば、私は敵の傭兵かスパイと疑われたことでしょう。他方で、中央アフリカの最寄りの空港までは6、7キロ程度の距離でしたが、それでもそこを目指すのは自殺行為でした。残る選択肢はカメルーンの空港でしたが、それもやはり危険な選択でした。長いあいだ困惑しつつも考えた結果、私の家族は、中央アフリカを経由してカメルーンの空港に行くという選択肢を私に試させようと決めました。


 2 日本にたどりついたのに
 3 ふたたび迫害のターゲットに



by p-dragon | 2018-11-03 09:27 | 個人のケース(証言・抗議)  

アフリカ難民ルイスさんの証言 2

Posted on: 2018年 11月 03日

アフリカ難民ルイスさんの証言
 2 日本にたどりついたのに

 2 日本にたどりついたのに
 3 ふたたび迫害のターゲットに


エクソダス
 中央アフリカでの私の旅はさながら出エジプト記のようでした。私のほかにも多くの人々が、手遅れになるまえに逃げるという私と同じ理由で、旅路を共にしたのです。検問を避けるため、私たちは徒歩で路上を進みました。政府の兵士たちがすべての車両を停止させ、すべての乗客の身元を注意深く確認していたからです。捕えられた者は死ぬまで拷問されました。途上では多くの死体を目にしました。道の先に人影が現れるたびに、私の心臓は高鳴り、恐る恐る顔を確かめました。

 私の兄弟の消息については何の報せもありませんでした。クーデター以後、[6]彼らの死体は発見されていませんが、しかし生存の証拠も見つかっていません。彼らについて善い噂も悪い噂も耳にしたものの、確たる証拠はまったく出てきませんでした。政府は、いまだに彼らを探し回っていると報じていました。

 もし私が捕まったら、パスポート、予防接種カード、そして身に着けた下着に隠していた5000ドルといった所持品は、私が逃亡者である明らかな証拠となったでしょう。それでも私は、野蛮から逃れるために進み続けました。家族や友達のことが、私が育った街のことが懐かしくてたまらなくなり、もし引き返せるのなら、という思いが去来しました。しかしそうすれば、カメルーン国境には二度と辿りつけなくなったでしょう。

 首都ベンギから離れれば離れるほど、旅路を共にする人たちの数は減っていきました。政府支持の街や村を避けるため、密林のなかを移動したことも何度かありました。私たちは集団で移動していましたが、自分の責任は自分でとり、事情をおたがいに秘密にしていました。私は森のなかで食べ物を見つけることがほとんどでしたが、その一方で、集落で食べ物を買ってくる人もいました。

国境をこえてカメルーンへ
 46日かけて、私たちはようやくカメルーン国境に到達しました。ようやく中央アフリカの兵士に捕えられる恐怖から解放されたのです。

 [7]ところがカメルーン領に入り、手続きのため検問所に入ると、そこでは悪夢が待ち構えていました。カメルーンの兵士に何時間も尋問されることになったのです。彼らは私が兵士ではないのかと言いがかりをつけ、私には分からないことばかり尋ねてきました。私はすべての言いがかりを否定しました。彼らは私を送還すると脅したうえで、とても払えないような高額のわいろを要求してきました。最終的に私から何も取れないと分かると、彼らは私を中央アフリカ領まで戻したのです。彼らカメルーンの兵士の冷酷さには別段驚きませんでした。クーデターが始まるまえから、彼らの残酷さを私は目撃してきたからです。〔中略〕

 [11]かつての忌まわしい記憶を思い出しつつ、もうカメルーン兵に手続きはもちかけるまいと決めました。国境で数日を過ごした後、私はブローカーを見つけ、彼と兵士とに少額のお金を払うだけで手続きを代行させることができました。

 ブローカーの案内で乗ったバスでは、運転手と助手以外、他の乗員もすべて中央アフリカ出身者でした。発車後20分ほどで検問所に停まると、兵士が全乗員にパスポートを出すよう命令しました。私たちは運転手に、2千CFAフランをパスポートに挟んでおくよう助言されました。最初の検問所を抜けた数分後には、また別の検問所に停められました。そこの兵士はより攻撃的な態度で、パスポートと予防接種カードを出すよう命令してきました。そして、ある兵士は自分が警察官だといい、別の兵士は自分を憲兵や医療機関の者などと称し、それぞれに金を要求してきたのです。何人かの乗員は抗議しました。彼らの制服から、彼らが同じ所属であることは一目瞭然だったからです。[12]しかし兵士たちは、金を出さなければ逮捕すると脅してきました。仕方なく私たちは金を払いました。それからも、カメルーンの都市ベルトゥアに到着するまで、検問所に停まるたびに金を払わされました。

 ベルトゥアはとても大きな都市で、あちこちに旅行代理店がありました。私は誰にも頼らず自分で、首都ヤウンデ行のバスを売るチケット売りを見つけ、バスに乗りました。大型のバスで乗員が20名はいました。ところが奇妙なことに、どの検問所でも兵士は私だけを目に留めてパスポートの提出を求めてきたのです。つまり、乗員のうち私だけが外国人だったのです。私はまたパスポートに金を挟んで渡しました。ヤウンデに着くまで、すべての検問所で同じことに煩わされました。

 なぜそんなに簡単に私が外国人だと分かるのか、不思議でした。私の血縁上の家族はカメルーンから脱出しましたが、それでも私は5歳までこの国に暮らしていたのです。それでは何が変わったのか。服装や髪形がカメルーンと中央アフリカでは大きく違ったのです。

ヤウンデ空港で出国を妨害される
 [13]ヤウンデまでは10時間かかりました。停車場には標識や案内図がなかったので、航空券を扱っている旅行代理店を見つけるためにタクシーを拾いました。スイス航空に連れてこられたので、そこで私は成田空港行の便を予約しました。代金はおよそ3千ドルでした。出発まで2日あったので、小さなホテルに泊まり、〔外国人と判別されやすい〕外見を変えるために服を買いました。

 私はなるべくホテルの部屋から出ないようにしました。家族や友人のことを思い出し、故郷にあったすべてが懐かしくなり、私は長いあいだ泣いていました。

 出発の日、離陸の二時間前に私は空港に到着しました。航空会社の窓口で予約を確認し、アナウンスを聞いてからゲートを通過すると、その先には警察と入管の窓口が、そしてさらには憲兵の窓口がありました。彼らは私のパスポートと予防接種カードを確かめると、とても払えない法外な額を払うよう要求してきました。彼らは私を尋問のための部屋に連れて行くと、私が中央アフリカ政府に追われている難民であることを非難し、[14]私を送還すると脅しました。もう離陸まで時間がなかったので、私は言葉を尽くして懇願しましたが、それでも彼らは私を通そうとしませんでした。

 2時間も尋問されたあと、500ドルを払ってようやく解放されましたが、私の便はもう離陸していました。航空会社の窓口に行くと、スタッフは私のせいで40分離陸が遅れたと怒っていました。事情を話すと、別な空港から発つように助言されました。ヤウンデは首都で〔外国人の往来が多いので〕、職員たちはいつも外国人に金をせびろうとするのだと聞きました。私はスイス空港に遅延のペナルティとして100ドルを払ったうえで、私はドゥアラ空港から発つ便に乗ることになりました。

日本にたどり着いてから
 5日後、私はドゥアラ空港にいました。私は問題なく機内に搭乗できました。スイスで私は乗り換えましたが、空港の名前は憶えていません。

 成田空港に着いたときには、ドゥアラを発ってからほぼ2日が経っていました。入管窓口では職員に厳しく尋問されましたが、数分後には窓口を通過して日本に入ることができました。入国日は2002年7月27日です。

 ルイスさんは空港で出会ったガーナ人の男性に渋谷まで案内されたものの、当時は英語が話せなかったのでコミュニケーションがうまくとれず、さらには宿代が払えるほど所持金が余っていなかったため渋谷駅周辺で2日を過ごす。その後、アフリカ人が多くいると聞いて訪れた原宿で、彼はフランス語を話せるアフリカ出身者に、国連難民高等弁務官(UNHCR)駐日事務所が渋谷にあると教えられる。UNHCR事務所に訪問すると、今度は難民支援協会に連れていかれ、そこで数日にわたりインタビューを受けた後、難民支援協会スタッフに案内されて入管で難民申請をおこなった。

日本の残酷な難民認定制度
 [16]私は入管で何度もインタビューを受けました。中央アフリカで起きたことについて私は明確に説明しました。しかし一年半後、入管は難民不認定の結果を下しました。私はすぐに異議申立てを行いましたが、しかし在留資格を切られオーバーステイにされてしまいました。

 それから11か月後、私はオーバーステイを理由に警察に逮捕されました。11日間留置された後、入管に送られ、一度のインタビューを受けてから、2004年4月頃、私の収容が決定されたのです。これが私にとってはじめての、1年6か月にわたって続く入管収容となりました。

 収容中、私は多くの強制送還を目にしました。トルコのクルド人の家族が送還されるのも見ました。入管職員による洗脳のせいで妻や子を失う人たちもいました。どれほど日本の難民システムが残酷なものかを私は知ったのです。こうしたことが起きるたびに私は大きな恐怖を覚えました。不安に襲われるのは毎晩のことで、明け方5時ごろに、多くの職員たちの足音が聞こえてくることを私は実に恐れていました。[17]なぜなら、この時間帯に入管職員たちは居室から被収容者を連れ出して送還するからです。

 東京カトリック教会の方々に保証人になってもらい、私はようやく解放されました。あの地獄から私を出してくれた彼らにいつも感謝しています。

 解放から数か月後に、難民不認定にたいする異議申立ての結果を知らされましたが、それは私の生命の保護を拒否するものでした。私のようなケースの難民を受け入れない国は日本以外にありません。送還されるのではないかという恐怖を日々より強く感じるようになりました。私は弁護士をつうじて入管にたいして難民認定を求める裁判を提訴しました。仮放免の更新で入管に出頭するたび、また収容するぞと職員に脅されました。私が裁判に勝てる見込みはなく、すぐに敗訴の判決が出るはずだから帰国しろと言われました。仮放免更新のための出頭日にはほぼかならず、多くの人が捕まって入管に連れてこられるのを見ました。

カメルーンのパスポートを取得
 中央アフリカに送還されるかもしれないことへの恐怖から、私は中央アフリカのパスポートのかわりに、私の出生国であるカメルーンのパスポートを取得することにしました。[18]カメルーン出身の友人が、本国の家族をつうじて私の必要書類を取得することを手伝ってくれたので、カメルーン大使館でパスポートを取得することは容易になりました。しかも大使館には、私の血縁上の父が属している氏族の出身者や、両親が政治問題に巻き込まれるまえに父と同じ上位の学校を出て、父と同じ政府機関に勤めたことのある人が勤めていたのです。

 入管の手続は非常に緩慢でストレスがたまるものでした。同様の経験のある外国人と話すたびに、日本の難民システムがどれほどに申請者を抑圧しているのかについて、より強く実感するようになりました。

 その後、2007年にルイスさんは、ある日本人女性と交際をはじめる。二人は愛情を深め、結婚を決意するに至る。女性はルイスさんの生い立ちを境遇を聞き、彼に深く同情したので、中央アフリカで養子縁組により得たアマドゥという名ではなく、出生地カメルーンで親が授けた本名ルイスで結婚することを提案した。ところが、本名での結婚を入管に届けると、入管はルイスさんの事情を無視して彼を収容してしまう。その後の事情については公開済。

「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発






by p-dragon | 2018-11-03 09:25 | 個人のケース(証言・抗議)  

アフリカ難民ルイスさんの証言 3

Posted on: 2018年 11月 03日

アフリカ難民ルイスさんの証言
 3 ふたたび迫害のターゲットに

 1 虐殺を逃れて
 2 日本にたどりついたのに
 3 ふたたび迫害のターゲットに


 2012年、ルイスさんは、あるカメルーン人に商談の通訳を依頼されたが、その取引が実は詐欺だったため、無実であるのに警察に疑われ、逮捕されてしまう。彼は起訴されずに解放されたものの、警察による嘘と誘導のせいで、配偶者との関係が破綻してしまう。配偶者は警察に促され、第二子を堕胎し、ルイスさんの事業資金を勝手に持ち出して姿を消した(「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発 3 を参照)。

 家族の喪失にくわえて、ルイスさんは仕事で客から預かった金を返せなくなり、さらには詐欺を実行した同郷出身者を警察に売ったとしてコミュニティから敵視されるようになった。それがあろうことか、アフリカの彼の家族、親族が命を奪われ、彼自身もまた脅迫されて犯罪の濡れ衣を着せられるという事態に発展してしまう。


密告者として非難される
 [49]中央アフリカの家族から私に電話がかかってくるようになりました。なんとしても客から預かった金を返してくれ、彼らは政権の関係者だと言うのです。[50]日本では、詐欺の実行犯の友人たちが私を脅しはじめ、詐欺の獲物になる別の日本人を紹介しろとか、金を出せとか言ってきました。彼らの名前を私が福岡県警に教えたからです。

 数日後に私は、在日カメルーン人の団体の代表を務めていた男性に呼び出され、彼らの名を取調中に警察にばらしたのか、私が彼らに出会った六本木の店も伝えたのかを尋ねてきました。私ははじめ否定しましたが、しかし男性は、警察が彼を訪れ、実行犯の友人たちの名を口に出し、店について尋ねてきたというのです。私は警察に情報を伝えたことを認めました。その結果、私の名が警察への密告者として、カメルーン人や他のアフリカ人のコミュニティの全体に伝わってしまいました。みなが私を、故郷とコミュニティにたいする裏切り者として罵りました。

 六本木を歩いていて、アフリカ人女性に傘で後頭部を殴られ、耳をひどく痛めたこともあります。[51]なぜ殴ったか女性に聞いたところ、彼女は詐欺実行者のガールフレンドで、彼が逮捕されカメルーンに送還されたことや、私が彼と出会った店は警察に監視されていることは私のせいであり、だから報いを受けねばならないと言うのです。他にも多くの人に脅され、あるいは殴られたので、私は界隈を離れました。数か月後、例の店は閉店していました。

 中央アフリカ共和国にいる友人が、私の中央アフリカの親族とカメルーンの親族との双方に圧力をかけはじめました。日本在住の友人が私の状況を説明し、弁護士が動いていることも伝えてくれましたが、彼は信用せず、私の親族を脅しつづけました。日本でも詐欺実行者の友人やコミュニティからの脅しは続き、そして弁護士は妻の行方を追跡できないままでした。

アフリカの家族・親族の虐殺

 2013年2月、中央アフリカの友人と他の人たちが、いよいよ注文した車や預けた金の返却を要求してきました。[52]同じころ、中央アフリカ政府が、私の親族を反乱勢力の支援者として非難しはじめます。私が彼らの預かった金を反乱勢力に資金として提供していたと主張したのです。私の親族は電話で助けを求めてきました。弁護士が動いているものの、警察の妨害のせいで訴訟に進めずにいるとしか私は説明できませんでした。

 2013年5月、親族が軍に連れ去られたという報せが届きました。親族の携帯に電話をかけても、誰も応答しません。フランスにいる血縁上の親族に電話をかけると、彼らが恐怖で慌てながら次のように説明しました。反乱勢力が中央アフリカ共和国の首都バンギを掌握した後、私の親族の多くが失踪した、後の情報によれば彼らを連れ去ったのは政府内にいた私の顧客の親族である、政府関係者は首都を放棄するさいに、多くの人々を殺していったのだと〔中央アフリカ共和国では同年3月24日、反乱勢力の同盟セレカが首都バンギを制圧し、8月には中央アフリカ共和国史上初のムスリム大統領ジョトディアの政権が発足した〕。

 このことを顧客に電話で尋ねると、顧客は事実を認めました。私は誰も裏切っていません。[53]しかし彼は、私が彼らの金を反乱勢力に提供したことの報いとして、私の親族を40人以上も殺したのだと言ったのです。

 さらには、中央アフリカとカメルーンの双方で、他の多くの親族が失踪しました。

続く敵視と脅迫
 私によって名前を警察に密告されたと考えた人たちが日本を離れました。その一方で、何らかの理由で日本に戻ってこられなくなる人もいて、そのなかには日本人女性とのあいだに子をもつカメルーンの議員もいました。駐日カメルーン大使館では、私の国籍問題をめぐって意見が割れました。ある者は私がカメルーン出身ではないと言い、ある者は私の親族はみなお尋ね者になっていて、私自身は中央アフリカ一帯のイスラム主義者を支援していると言います。

 日本のアフリカ人コミュニティにおける私にかんする風説は、フランスやカメルーンにも流され、私だけではなくフランスにいる私の両親をも苦しめました。私はすべての所持金を関係者に払い、フランスの両親も金を出してくれました。しかし彼らはもっと金を出せと言い、私が返すべき金額よりもさらに多くを要求してきました。

 悪魔のような日本の警察のせいで、私は結婚生活を壊されただけでなく、[54]アフリカにいた自分の家族や親族を虐殺されてしまったのです。警察の背後にいる人種差別的な政治家たちにたいして、私は無力です。私の弁護士も、このようなシステムにうんざりしていました。

詐欺の罪をなすりつけられ刑務所に
 カメルーンの議員と彼の日本およびフランス在住の仲間は、私や、フランスおよびカメルーンにいる私の家族・親族を脅しつづけました。私や私の家族・親族が解放されたいなら詐欺の獲物を見つけてこいと、彼らは私に言うのでした。私はやむをえず彼らを手伝うことにしました。

 2013年6月、私は仙台に待機させられ、その翌月に逮捕され、自分が犯していない罪で3年半も刑務所に入ることになりました。例のカメルーンの議員とその日本人のガールフレンドが仲間を使って、詐欺の被害者、目撃者など、すべてを仕組んだのです。

 私は事情を弁護士と警察に説明しようとしましたが、しかし弁護士〔東京で離婚の件を扱った弁護士とは別〕は、その話をすれば警察の追及はさらに厳しくなるから黙っていたほうがいいと助言してきました。起訴の後、警察はこの事件が嘘の証言にもとづいていると気づきます。取調官は私に、[55]弁護士の助言に従って取調中に黙っていたのは愚かだった、事実が何であれ警察が私を助けられる段階ではもうないと伝えました。私はみずから法廷で検察官にたいして弁明しなければなりませんでした。

 私が無罪を主張したので、裁判は1年2か月かかりました。控訴したものの結果は変わらず、3年6か月の実刑が確定し、実際には横浜刑務所に1年6か月入りました。

入管収容所で自殺を試みる
 2016年10月4日、私は刑務所を出ましたが、同じ日から私は茨城県の東日本入管センターに収容されつづけています。そこで私はふたたび難民申請をしました。

 今年6月14日、私は自殺を試みました。私を離婚に追い込み、私の第二子を堕胎させ、あらゆる人種差別的な行為を働いたこの国の政府機関が、私を難民として保護するなどとは信じられないからです。

おわりに
 日本政府がアフリカ人、アジア人など貧しい国の人々を嫌っているのは疑いようがありません。政府の職員が家族を引き裂き堕胎をさせてしまうのです。[56]入管は常習的に他の人種を憎み、日本人と異人種との結婚を引き裂くために、外国人の配偶者にたいする憎悪と偏見を日本人に植えつけているのです。

 この手記が多くの人に読まれ、もしどんな理由であれ日本の入管に収容されれば自分の身に何が起こりうるのかを知ってもらえれば幸いです。日本の公務員の人種差別的な行為について私が述べてきたことは、日本人には隠されていますが、すべての在日外国人コミュニティや駐日大使館、あるいは弁護士やボランティア団体が知っていることです。

 私の夢は娘に再会し、父親として彼女にできるかぎりの支援をすることです。しかし日本政府が私の権利の障害になっていると私は考えます。




by p-dragon | 2018-11-03 09:23 | 個人のケース(証言・抗議)