アフリカ難民ルイスさんの証言 2

Posted on: 2018年 11月 03日

アフリカ難民ルイスさんの証言
 2 日本にたどりついたのに

 2 日本にたどりついたのに
 3 ふたたび迫害のターゲットに


エクソダス
 中央アフリカでの私の旅はさながら出エジプト記のようでした。私のほかにも多くの人々が、手遅れになるまえに逃げるという私と同じ理由で、旅路を共にしたのです。検問を避けるため、私たちは徒歩で路上を進みました。政府の兵士たちがすべての車両を停止させ、すべての乗客の身元を注意深く確認していたからです。捕えられた者は死ぬまで拷問されました。途上では多くの死体を目にしました。道の先に人影が現れるたびに、私の心臓は高鳴り、恐る恐る顔を確かめました。

 私の兄弟の消息については何の報せもありませんでした。クーデター以後、[6]彼らの死体は発見されていませんが、しかし生存の証拠も見つかっていません。彼らについて善い噂も悪い噂も耳にしたものの、確たる証拠はまったく出てきませんでした。政府は、いまだに彼らを探し回っていると報じていました。

 もし私が捕まったら、パスポート、予防接種カード、そして身に着けた下着に隠していた5000ドルといった所持品は、私が逃亡者である明らかな証拠となったでしょう。それでも私は、野蛮から逃れるために進み続けました。家族や友達のことが、私が育った街のことが懐かしくてたまらなくなり、もし引き返せるのなら、という思いが去来しました。しかしそうすれば、カメルーン国境には二度と辿りつけなくなったでしょう。

 首都ベンギから離れれば離れるほど、旅路を共にする人たちの数は減っていきました。政府支持の街や村を避けるため、密林のなかを移動したことも何度かありました。私たちは集団で移動していましたが、自分の責任は自分でとり、事情をおたがいに秘密にしていました。私は森のなかで食べ物を見つけることがほとんどでしたが、その一方で、集落で食べ物を買ってくる人もいました。

国境をこえてカメルーンへ
 46日かけて、私たちはようやくカメルーン国境に到達しました。ようやく中央アフリカの兵士に捕えられる恐怖から解放されたのです。

 [7]ところがカメルーン領に入り、手続きのため検問所に入ると、そこでは悪夢が待ち構えていました。カメルーンの兵士に何時間も尋問されることになったのです。彼らは私が兵士ではないのかと言いがかりをつけ、私には分からないことばかり尋ねてきました。私はすべての言いがかりを否定しました。彼らは私を送還すると脅したうえで、とても払えないような高額のわいろを要求してきました。最終的に私から何も取れないと分かると、彼らは私を中央アフリカ領まで戻したのです。彼らカメルーンの兵士の冷酷さには別段驚きませんでした。クーデターが始まるまえから、彼らの残酷さを私は目撃してきたからです。〔中略〕

 [11]かつての忌まわしい記憶を思い出しつつ、もうカメルーン兵に手続きはもちかけるまいと決めました。国境で数日を過ごした後、私はブローカーを見つけ、彼と兵士とに少額のお金を払うだけで手続きを代行させることができました。

 ブローカーの案内で乗ったバスでは、運転手と助手以外、他の乗員もすべて中央アフリカ出身者でした。発車後20分ほどで検問所に停まると、兵士が全乗員にパスポートを出すよう命令しました。私たちは運転手に、2千CFAフランをパスポートに挟んでおくよう助言されました。最初の検問所を抜けた数分後には、また別の検問所に停められました。そこの兵士はより攻撃的な態度で、パスポートと予防接種カードを出すよう命令してきました。そして、ある兵士は自分が警察官だといい、別の兵士は自分を憲兵や医療機関の者などと称し、それぞれに金を要求してきたのです。何人かの乗員は抗議しました。彼らの制服から、彼らが同じ所属であることは一目瞭然だったからです。[12]しかし兵士たちは、金を出さなければ逮捕すると脅してきました。仕方なく私たちは金を払いました。それからも、カメルーンの都市ベルトゥアに到着するまで、検問所に停まるたびに金を払わされました。

 ベルトゥアはとても大きな都市で、あちこちに旅行代理店がありました。私は誰にも頼らず自分で、首都ヤウンデ行のバスを売るチケット売りを見つけ、バスに乗りました。大型のバスで乗員が20名はいました。ところが奇妙なことに、どの検問所でも兵士は私だけを目に留めてパスポートの提出を求めてきたのです。つまり、乗員のうち私だけが外国人だったのです。私はまたパスポートに金を挟んで渡しました。ヤウンデに着くまで、すべての検問所で同じことに煩わされました。

 なぜそんなに簡単に私が外国人だと分かるのか、不思議でした。私の血縁上の家族はカメルーンから脱出しましたが、それでも私は5歳までこの国に暮らしていたのです。それでは何が変わったのか。服装や髪形がカメルーンと中央アフリカでは大きく違ったのです。

ヤウンデ空港で出国を妨害される
 [13]ヤウンデまでは10時間かかりました。停車場には標識や案内図がなかったので、航空券を扱っている旅行代理店を見つけるためにタクシーを拾いました。スイス航空に連れてこられたので、そこで私は成田空港行の便を予約しました。代金はおよそ3千ドルでした。出発まで2日あったので、小さなホテルに泊まり、〔外国人と判別されやすい〕外見を変えるために服を買いました。

 私はなるべくホテルの部屋から出ないようにしました。家族や友人のことを思い出し、故郷にあったすべてが懐かしくなり、私は長いあいだ泣いていました。

 出発の日、離陸の二時間前に私は空港に到着しました。航空会社の窓口で予約を確認し、アナウンスを聞いてからゲートを通過すると、その先には警察と入管の窓口が、そしてさらには憲兵の窓口がありました。彼らは私のパスポートと予防接種カードを確かめると、とても払えない法外な額を払うよう要求してきました。彼らは私を尋問のための部屋に連れて行くと、私が中央アフリカ政府に追われている難民であることを非難し、[14]私を送還すると脅しました。もう離陸まで時間がなかったので、私は言葉を尽くして懇願しましたが、それでも彼らは私を通そうとしませんでした。

 2時間も尋問されたあと、500ドルを払ってようやく解放されましたが、私の便はもう離陸していました。航空会社の窓口に行くと、スタッフは私のせいで40分離陸が遅れたと怒っていました。事情を話すと、別な空港から発つように助言されました。ヤウンデは首都で〔外国人の往来が多いので〕、職員たちはいつも外国人に金をせびろうとするのだと聞きました。私はスイス空港に遅延のペナルティとして100ドルを払ったうえで、私はドゥアラ空港から発つ便に乗ることになりました。

日本にたどり着いてから
 5日後、私はドゥアラ空港にいました。私は問題なく機内に搭乗できました。スイスで私は乗り換えましたが、空港の名前は憶えていません。

 成田空港に着いたときには、ドゥアラを発ってからほぼ2日が経っていました。入管窓口では職員に厳しく尋問されましたが、数分後には窓口を通過して日本に入ることができました。入国日は2002年7月27日です。

 ルイスさんは空港で出会ったガーナ人の男性に渋谷まで案内されたものの、当時は英語が話せなかったのでコミュニケーションがうまくとれず、さらには宿代が払えるほど所持金が余っていなかったため渋谷駅周辺で2日を過ごす。その後、アフリカ人が多くいると聞いて訪れた原宿で、彼はフランス語を話せるアフリカ出身者に、国連難民高等弁務官(UNHCR)駐日事務所が渋谷にあると教えられる。UNHCR事務所に訪問すると、今度は難民支援協会に連れていかれ、そこで数日にわたりインタビューを受けた後、難民支援協会スタッフに案内されて入管で難民申請をおこなった。

日本の残酷な難民認定制度
 [16]私は入管で何度もインタビューを受けました。中央アフリカで起きたことについて私は明確に説明しました。しかし一年半後、入管は難民不認定の結果を下しました。私はすぐに異議申立てを行いましたが、しかし在留資格を切られオーバーステイにされてしまいました。

 それから11か月後、私はオーバーステイを理由に警察に逮捕されました。11日間留置された後、入管に送られ、一度のインタビューを受けてから、2004年4月頃、私の収容が決定されたのです。これが私にとってはじめての、1年6か月にわたって続く入管収容となりました。

 収容中、私は多くの強制送還を目にしました。トルコのクルド人の家族が送還されるのも見ました。入管職員による洗脳のせいで妻や子を失う人たちもいました。どれほど日本の難民システムが残酷なものかを私は知ったのです。こうしたことが起きるたびに私は大きな恐怖を覚えました。不安に襲われるのは毎晩のことで、明け方5時ごろに、多くの職員たちの足音が聞こえてくることを私は実に恐れていました。[17]なぜなら、この時間帯に入管職員たちは居室から被収容者を連れ出して送還するからです。

 東京カトリック教会の方々に保証人になってもらい、私はようやく解放されました。あの地獄から私を出してくれた彼らにいつも感謝しています。

 解放から数か月後に、難民不認定にたいする異議申立ての結果を知らされましたが、それは私の生命の保護を拒否するものでした。私のようなケースの難民を受け入れない国は日本以外にありません。送還されるのではないかという恐怖を日々より強く感じるようになりました。私は弁護士をつうじて入管にたいして難民認定を求める裁判を提訴しました。仮放免の更新で入管に出頭するたび、また収容するぞと職員に脅されました。私が裁判に勝てる見込みはなく、すぐに敗訴の判決が出るはずだから帰国しろと言われました。仮放免更新のための出頭日にはほぼかならず、多くの人が捕まって入管に連れてこられるのを見ました。

カメルーンのパスポートを取得
 中央アフリカに送還されるかもしれないことへの恐怖から、私は中央アフリカのパスポートのかわりに、私の出生国であるカメルーンのパスポートを取得することにしました。[18]カメルーン出身の友人が、本国の家族をつうじて私の必要書類を取得することを手伝ってくれたので、カメルーン大使館でパスポートを取得することは容易になりました。しかも大使館には、私の血縁上の父が属している氏族の出身者や、両親が政治問題に巻き込まれるまえに父と同じ上位の学校を出て、父と同じ政府機関に勤めたことのある人が勤めていたのです。

 入管の手続は非常に緩慢でストレスがたまるものでした。同様の経験のある外国人と話すたびに、日本の難民システムがどれほどに申請者を抑圧しているのかについて、より強く実感するようになりました。

 その後、2007年にルイスさんは、ある日本人女性と交際をはじめる。二人は愛情を深め、結婚を決意するに至る。女性はルイスさんの生い立ちを境遇を聞き、彼に深く同情したので、中央アフリカで養子縁組により得たアマドゥという名ではなく、出生地カメルーンで親が授けた本名ルイスで結婚することを提案した。ところが、本名での結婚を入管に届けると、入管はルイスさんの事情を無視して彼を収容してしまう。その後の事情については公開済。

「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発






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by p-dragon | 2018-11-03 09:25 | 個人のケース(証言・抗議)  

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