アフリカ難民ルイスさんの証言 1

Posted on: 2018年 11月 03日

アフリカ難民ルイスさんの証言
 1 虐殺を逃れて

 1 虐殺を逃れて
 2 日本にたどりついたのに
 3 ふたたび迫害のターゲットに

 日本の入管および警察の権力濫用によって家族を引き裂かれたルイス・クリスチャン・ムバラさんの手記の日本語訳を、先日に公開した。

 参考記事 「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発 (2018年9月16日)

 くわえて、もともとルイスさんはアフリカからの難民である。しかし入管は彼を難民認定していない。彼は自分を強制送還しようとする入管の不当性を明らかにするため、自分の経験を日本の市民に知らせたいと希望している。以下は、ルイスさんの手記のうち、彼の難民としての事情にかんする部分の翻訳である。

 ルイスさんはカメルーンに生まれたが、紛争による避難先の中央アフリカ共和国での養子縁組により、中央アフリカ市民の身分をもつ。彼は2001年の中央アフリカでのクーデター未遂に巻き込まれ、想像を絶する虐殺から逃れるため、命からがら日本に逃げついた。

 ところが来日から約10年後、ルイスさんは 巻き込まれた事件のせいで、彼の中央アフリカの家族、親族が殺され、ルイスさん自身は自分の犯していない罪をなすりつけられ、刑務所送りになるまでの、悲劇的な経緯が記されている。しかもこの事態は、日本の警察が彼を離婚に追い込み、彼の事業資金を配偶者が無断で持ち去ることを警察が容認したことが、間接的な要因になっている(警察の件については上記記事の第3節を参照)。

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 [1]この手記を書くよう促してくれたボランティアに敬意を表しつつ。私はカメルーン出身のムバラ・ルイス・クリスチャン(1981年生)といいます。
 私の家族は巻き込まれた政治的問題のため、中央アフリカ共和国領に避難しました。詳しい事情については分かりません。当時私は5歳くらいでした。その後、両親と兄、姉は難民申請するためにヨーロッパに発ちました。私は、中央アフリカの首都ベンギの一地区に住む父の友人――二人ともムバヤ(Mbaya)という氏族に属していました――のところに残されました。私は彼の養子となり、アマドゥ・ウスマンというイスラム教の名を与えられました。こうして私は中央アフリカで育てられたのです。16歳のころ私は全国リーグに出るフットボール選手となり、そして19歳でナショナル・チームに選出されました。
 私が12歳のころ、中央アフリカでは政治的、軍事的な対立が生じ、氏族間の内戦へと発展しました。戦争の構図が変わるごとに、新たな氏族と指導者が権力に就き、昨日の友が今日の敵になるということが繰り返されました。とはいえ、こうした政治的側面にかんして私がきちんと説明できるわけではありません。私が知っているのは、毎日、身近なところで誰かが死んでいたということです。銃で、あるいはエイズをうつすことによって、人が人を殺していました。

2001年、クーデター未遂から虐殺へ
 2001年5月28日〔ルイスさんが20歳になる少し前〕に起きた、パタセ大統領の政権にたいするクーデターに、私の中央アフリカの家族は直接に関与していました。[2]クーデターが未遂に終わると、すぐに政府軍が、怒りと復讐欲に満ちた報復をはじめました。私の住んでいた場所も政府軍の標的にされ、14歳以上の男性はすべて殺され、すべての女性がレイプされました。私は幸運にも、両親とともにウバンギ川の向こう側、コンゴ民主共和国領に逃げることができました。
 二、三週間後に家に戻ると、居間で4人の兄弟の遺体を発見しました。私たち家族は非常に大きな衝撃を受けました。最悪だったのは、兄弟を家の敷地内に葬らねばならなかったことです。死体を墓地に運ぶ途中で政府軍に見つかれば、反乱勢力として捕まえられてしまったでしょう。そうなれば兵士たちによる最悪の身体的拷問を死ぬまで受けつづけたでしょう。そのような危険を犯すことは誰もしませんでした。
 政府軍と反乱勢力との戦闘は、私の家族や親族の多くが属していた氏族であるヤコマ(Yakoma)をめぐるものとなりました。

【参考資料】国連難民高等弁務官(UNHCR)短報(2001年6月29日)抄訳

中央アフリカ共和国 数万人が避難

 中央アフリカでは、先月のクーデター未遂にたいして政府が反対派の弾圧を始めて以降、数万人が避難のために自分の故郷を離れている。およそ6万人から7万人の国内避難民が、中央アフリカの首都バンギの南部にいる。それ以外にも1万4千から7千万人が、コンゴ民主共和国の北西の端にある赤道州に逃げている。

 ……クーデター勢力によるバンギのアンジュ=フェリックス・パタセ大統領邸への攻撃は、多数の死者を出したと報じられている。その後、報道によれば兵士たちは、〔クーデター指導者〕アンドレ・コリンバ元陸軍参謀長が属するヤコマ民族を狩りまわっている。

ルイスさんの兄がクーデターの中心人物として報じられる
 その後、銃撃により負傷したジャデル=ブダヤ将軍(François Ndjadder-Bedaya)が三週間の意識不明をへて死亡したと報じられました。政府によれば、将軍はクーデターの夜、勇敢にも反乱者たちに反撃するなかで、私の二人の兄のうち一人に撃たれたというのです。[3]この報道は国営のラジオおよびテレビで流されたので、私たちはみなそれを聞きました。怒りが国じゅうに広がり、政府軍の全兵士が敵を狩り出し殺すために出動しました。死体がそこかしこに転がりました。

 私の親しい人々がもの言わぬ死体となり、悪臭を発しながら腐っていくさまを思い出すと、耐えがたい苦しみに襲われずにはいられません。いまだに、いまだに私は、あの日々を忘れようと苦しみもがいています。

コンゴでの避難生活

 クーデター未遂がもたらした一連の帰結を見れば、私の中央アフリカの両親がもはや中央アフリカには暮らせないことは明白でした。

 私たちが一時的な隠れ家を見出せる場所は、コンゴ民主共和国のみでした。しかし不幸にも、私たちが居た、中央アフリカの首都ベンギの川向うにあるコンゴ領ゾンゴという都市は、ジャン=ピエール・ベンバの系列の反乱組織バニャムレンゲの民兵が支配する地域でした。私たちはまたもや戦時にある国に暮らすことになったのです。そこでの生活は地獄でした。あらゆる種類の支援を反乱勢力に提供しなければならず、それを拒んだなら兵士に連れ去られたのです。〔ベンバはモブツ失脚後に結成されたコンゴ解放運動MLCの指導者、2002年の和平後2006年まで副大統領。バニャムレンゲは、本来はコンゴ東部のルワンダ系の人々を指す語だが、1996年のコンゴ戦争以降、さまざまなバニャムレンゲの民兵組織がさまざまな勢力に結びついて活動した。〕

 私たちはコンゴに約一年間滞在しました。その間、さまざまな勢力どうしの争いにより、私たちの不幸は日々より大きくなっていったので、新しい住みかを探さねばならないと考えるようになったのです。コンゴは地獄でした。とはいえ、コンゴ領内を移動することは、大変なだけでなく危険なことでした。

避難先の選択
 [4]希望がもてる唯一の避難手段は、中央アフリカ共和国の首都ベンギのどこかの大使館でビザの取得を代行してくれるブローカーを使うことだけだったのです。しかしほとんどの大使館は政府軍に警備されており、全来訪者をチェックしていました。彼らに疑わしいと見なされた者が捕まると、そのまま行方不明となり、数日後に死体となって道端で発見されるのです。私たちの近くにあった唯一の大使館が日本大使館であり、しかも幸運なことに、そこは反政府勢力の支配区域に位置していたので、政府軍に警備されていませんでした。

 養父アマドゥ・エケウに授けられたアマドゥ・ウスマンというムスリム名のおかげで、ブローカーは私のパスポートを簡単に取得することができました。私たちは中央アフリカ・ベンギの日本大使館を訪れ、すぐに私のビザを取得すると、家族の車二台を売り払ってから、川を渡ってコンゴ領に戻りました。

 ここからが私の逃避行でもっとも危険な部分、すなわち、誰にも捕まらずに空港にたどり着いて飛行機に乗るまでの過程です。コンゴ民主共和国領内では、もっとも近い空港はすら二千キロも離れていました。[5]そこにたどり着くまでには、コンゴのさまざまな反政府勢力や政府軍のいる地域を通過しなければならず、そうした地域では中央アフリカ人もまた戦闘に加わっていたのです。そうした場所にいれば、私は敵の傭兵かスパイと疑われたことでしょう。他方で、中央アフリカの最寄りの空港までは6、7キロ程度の距離でしたが、それでもそこを目指すのは自殺行為でした。残る選択肢はカメルーンの空港でしたが、それもやはり危険な選択でした。長いあいだ困惑しつつも考えた結果、私の家族は、中央アフリカを経由してカメルーンの空港に行くという選択肢を私に試させようと決めました。


 2 日本にたどりついたのに
 3 ふたたび迫害のターゲットに



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by p-dragon | 2018-11-03 09:27 | 個人のケース(証言・抗議)  

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