「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発 2

Posted on: 2018年 09月 16日

「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発
 2 入管により結婚生活を破壊されかける

 1 まえがき
 2 入管により結婚生活を破壊されかける
 3 警察により結婚生活を破壊される

 ルイスさんはカメルーン国籍のルイス・クリスチャン・ムバラとして結婚を届け出たが、日本入国および難民申請のさいは中央アフリカ国籍のアマドゥ・ウスマンの身分で手続きしていた。まえがきのとおり後者の身元は、ルイスさんが幼少期に難民として中央アフリカに移った後、養子縁組により得た身分であり、日本に渡航するために作った架空の身分ではない。くわえて、かつてフランスのテレビ番組にアマドゥ・ウスマンとして映されたことも、彼がアマドゥとして難民認定を求めた理由の一つだった。

 2008年、日本人女性と結婚するさい、彼女の勧めにより、ルイスさんは本来の名で結婚を届けることを決意する。


結婚を入管に報告したために収容されてしまう
 [19]……カメルーンのパスポートで結婚しないかと妻は私に言いました。そこが私の両親の故郷であり、子どもに私の出自を知らせるのがいいと考えたからです。私たちは市役所で結婚を届けました。その数日後、弁護士から電話があり、裁判で負けたと報告されました。入管は、私を収容し、送還すると脅しはじめました。次にどうするか、弁護士と相談しました。送還の心配はなく、結婚にかんする文書を入管に提出すべきだと彼は言いました。書類を提出したとき、妻は妊娠八か月でした。

 私が裁判のあとに国籍を変更したことにたいして、入管職員は怒って、私のパスポートが偽物だと言ってきました。

 2008年12月頃、仮放免延長手続のさい、私は二度目の収容されてしまいました。この悪い報せを私は電話で妻に伝えましたが、そのせいで妻は体調を崩し、[20]入院してしまいました。義母が面会に訪れ、すぐに仮放免を申請しましたが、不許可となりました。収容中に私は、裁判が終わったのだから中央アフリカに帰国しろと、職員から大きな圧力を受けました。どんな方法でも私を送還できると脅されました。あまりに大きな圧力に、私は平静を保てず、パニックに陥り、中央アフリカに送還されることを心配しました。送還を避けようとして、私は陳述の内容を変え、自分の背景を何度も否定し、とても苦しいことでしたが自分のパスポートをみずから否定しました。

東京入管の職員に嘘を吹き込まれ配偶者の態度が急変
 義母とともに妻が面会に来ました。妻は娘を出産するまでに、二か月間入院しました。出産の一週間後、妻は私と面会することを決心したのです。また彼女に会えることで私は嬉しくなり、他の被収容者たちにも私の変化が感じられるほどでした。

 彼らは私にこう警告しました。結婚を破綻させ、外国人を日本人の配偶者と引き離す、入管職員の洗脳と精神操作のシステムに気をつけろと。私自身も、日本在住のアフリカ人コミュニティや他のコミュニティのあいだで、そのような不平を何度も聞いてきました。[21]でも私は信じませんでした。彼らがすべて説明したあとにも、私は信用せず、彼らはおかしくなったのだと本気で思っていました。

 妻と面会したとき、彼女は少し怒っていました。私が彼女をまったく支えず、子どもが産まれたときにもそばにいなかったからです。私は深く謝り、父親としてそばで支えられなかったことを本当に悔やみました。彼女は、私を愛していること、私が妻と子のそばにいることを本当に必要としていることを告げ、私を収容から解放するために最善を尽くすと言ってくれました。

 一時間後、面会に来てくれたことに感謝を伝えるために妻に電話をしましたが、非常に驚き、ショックを受けることになりました。彼女は悲鳴をあげ、怒りで声を荒げ、泣きながら私を罵ったのです。どうして彼女の感情がこのように突然変わったのかを尋ねると、私が彼女を愛していないと入管職員に言われたと、彼女は説明しました。結婚はビザ欲しさのためだけの偽装で、彼女は幸せになれない、[22]私は日本にいるために彼女を利用しているだけであり、私のことは忘れるべきである、そう入管は説明したそうです。最後に彼女は、私が永住資格を得たら妻と離婚するつもりだったと入管に言われたが、もう遊びは終わりだと、私に告げました。彼女を宥めるため、本当に彼女を愛していると私は伝えましたが、しかし彼女は入管の言うことを信じ込んでしまっていました。もう私と話したくないと彼女は言い、電話を切り、数日のあいだ電話に出ませんでした。東京にいる友人たちに電話で、入管は嘘をついていると彼女に説明するよう頼みましたが、しかし妻は彼らと話すことも拒否しました。

 次に私が妻と電話で話すことができたとき、彼女は離婚の話を切り出しました。妻と子を愛していると理解してもらおうとしましたが無駄でした。彼女は二度と面会に来ず、電話で話すときはいつも攻撃的でした。数週間後、入管職員は私と妻の関係について尋ね、まだ関係があるのにどうして会いに来ないのかと言ってきました。入管収容施設にいる人は誰でも[23]、このような汚いやり方を知っています。彼らは被収容者の配偶者が離れるように仕向けてから、被収容者に配偶者の所在を尋ねるのです。

職員に騙され強制送還されるも命がけで抵抗
 その後、カトリック教会の人たちが私の仮放免申請を支援してくれました。この方々は私を見捨てません。本当に感謝しています。彼らのことを決して忘れないでしょう。

 仮放免申請の結果を待っている間に、私と親しく、私が敬意と信頼を置いていた一人の入管職員が、難民申請を取り消したほうがいいと助言しました。日本政府は難民を嫌っているが、しかし私は日本人と結婚し、二人のあいだに娘もいる〔ので、日本人配偶者として在留を求めるほうがいい〕という理由からです。できるだけ早く外に出て家族のもとに戻るためには、それが最善の方法とのことでした。だから私は難民申請を撤回したのです。

 すぐにインタビュー(口頭審理)を行うものと思い待っていましたが、入管は何もせず、私の名前と国籍を本来のものに変更することもありませんでした。収容期間が6か月を過ぎたあと、ある日の午後2時頃に私はインタビューに呼ばれます。私が中央アフリカ国籍のアマドゥ・ウスマンかと尋ねられ、そうだと答えると、職員は次のように言いました。[24]私は退去強制を命じられており、裁判でも負けたので、私の身元をカメルーン国籍のムバラ・ルイス・クリスチャンに変更する、この名前で退去強制令書もすでに出ている、今から私をカメルーンに強制送還する。それからこの職員がインタビュー終了を知らせると、多数の職員が部屋に入ってきました。何人かは毛布を持っていました。私が抵抗したら、それで私を簀巻きにするためです。抵抗しても無駄なので、私は何もしませんでした。多勢に無勢です。別室に連れていかれ、服を着替えることを許可されました。それから入管職員で満員になっているバスに乗せられたのです。バスが空港に向かう途上で、私は自分が信頼していた入管職員に騙されたのだと悟りました。

 私の心中は混乱と恐怖で満たされていました。妻と娘を失うだけでなく、最悪なことに、私自身もほとんど知らない国であるカメルーンに送還されようとしていたのです。しかし、カメルーンの兵士によるひどい扱い〔2002年に中央アフリカからカメルーン経由で日本に渡航する過程でこうむった〕だけは記憶に残っていました。カメルーンに送還されれば、必ず拷問されてから[25]、今度は中央アフリカに送られたことでしょう。そして中央アフリカでは、ウスマンという苗字のために殺されたかもしれません。

 だから私は意を決して、飛行機に乗らないことにしました。どうなっても構いません。命がかかっているのですから。飛行機の搭乗口で、私は扉に頭を打ちつけ、気が狂ったように叫び声をあげました。パイロットが駆けつけ、私を退出させるよう入管職員に言いました。

 職員たちは私をバスに戻したものの、殺しかねないような強さで私を圧迫しました。バスが入管に戻るまでのあいだずっと、制圧をやめてくれと私は叫んでいました。入管に着くと、私は一人用の居室に入れられました。

 翌日、私が難民申請を提出したいと言うと、数日後、攻撃的な姿勢の職員が出てきました。その職員は机を叩いて、私の身に起きたことを誰かに説明したのかと尋ねてきました。わたしが話していないと答えたあとも、職員は申請書類を渡すまで私を脅しつづけました。彼らが私を家族から引き離したことを、誰にも説明してほしくないと入管は考えていたようです。

配偶者との関係の危機
 [26]私は約一年間、東京入管の独房で過ごしたあと、東日本入国管理センター(茨城県)に移され、あわせて1年10か月の収容後に仮放免されました。

 解放後すぐに私は妻に電話し、渋谷で会うことになりましたが、彼女は攻撃的でした。娘への責任を私が果たしていないので、娘にも会わせてもらえませんでした。妻は離婚届にサインするよう迫りましたが、私は拒否し、私が彼女を愛していると説得しようとしました。妻と娘を幸せにするためにできるかぎりのことをすると伝えました。しかし彼女は、私が彼女を愛しておらず、日本在留のために彼女を利用しているだけであり、彼女は私といても幸せになれないのだと、入管に言われたことを繰り返しました。彼女への愛と責任感を示すために、私にもう一度チャンスが欲しいと私は頼みました。

 すると妻は契約書を取り出して、それに署名するよう迫りました。契約書の文面を読んで、入管による彼女の洗脳がどれほど深く成功したのかを私は悟りました。私の天使が、なにか違う存在に変わってしまったのです。契約書の内容は次のとおりです。[27]もし私がまた入管に収容されたら離婚する。もし私が警察に逮捕されて刑務所に入ったら離婚する。すべての稼ぎを彼女に渡す。残りの人生すべてをかけて彼女を幸せにする。これらの約束を破れば私はもう妻にも娘にも会えない。
 私は署名を拒みましたが、しかし彼女は、もし私が契約を拒むなら裁判所に離婚を申し立てると言いました。私に選択の余地はなく、契約書に署名しました。

結婚生活の回復と在留資格の獲得
 私は車の取引や通訳などで、月に30万円ほど稼ぎましたが、すべて彼女に渡しました。二か月後、娘に会うことが許されました。娘を見て、抱き上げることは、私の人生の大きな喜びでした。それは入管による洗脳をへて、彼女の心が私に戻り、私をふたたび信用してくれる兆しでした。[28]私は家族を幸せにするために一生懸命働きました。解放から四か月後、私たちは共同生活を始め、夫婦の愛、そして娘への愛に満ちた幸せな結婚生活を送りました。

 私たちが在留特別許可を申請すると、義母が入管のインタビューを受けました。義母は、私たちの結婚をいまも家族が支えていること、私の娘が義父をもつのには反対していることを、はっきりと伝えました。入管はインタビューをつうじて義母を洗脳しようとしたようですが、彼女は影響されることなく、入管職員の悪い言葉はすべて拒否しました。入管は長期収容を利用し、私の結婚を破綻させ、どの日本人も私に反感をもつようにしようと試みました。しかし私の義母とインタビューした後、私と日本の家族との仲を引き裂くのに失敗したと入管は気づいたはずです。私の義父母はとても親切で心の温かい人たちでした。彼らは私を息子として受け入れてくれました。私がアフリカ出身の黒人であることを、私のすべての背景を受け入れてくれました。

 [29]数か月後、入管は私に在留資格を認めました。

 家族とともに暮らす時間が増えれば増えるほど、家族のあいだの愛情は深まっていきました。妻と娘は、とても美しく、そして私によくしてくれました。私は二人を情熱的に愛しました。二人を幸せにするために、私は遅くまで働きました。私の義母はフランスを旅行したときに私の家族に会いました。私自身は、もう三十年近くフランスの家族に会っていません。

 私たちは結婚式を挙げることに決め、そのことで皆が幸せになりました。義父母はかれらの娘のことをとても誇らしく思っていました。私にとっても、義父母がほほえんでいるのを見るのは幸福という言葉では言い表せないほど嬉しいことでした。妻もまた、両親を喜ばせることができたことに誇りと幸せを感じていました。結婚の数日後、妻は妊娠しました。それを聞いて、私も家族みんなも非常に喜びました。

 3 警察により結婚生活を破壊される




[PR]

by p-dragon | 2018-09-16 09:16 | 個人のケース(証言・抗議)  

<< 「私は入管と警察に家族を奪われ... 「私は入管と警察に家族を奪われ... >>