SYI入管問題にかんする年次報告会(12月2日)

Posted on: 2018年 12月 02日

SYI年次報告会2018
日本の入管政策こそ移民・難民をだます偽装である

English

2018年12月2日(日) 14:00-16:30 (13:30会場)

万世橋区民館 3階和室 
 JR秋葉原駅 電気街口から徒歩5分
 東京都千代田区外神田1-1-11

資料代 500円

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  • 報告 ますます厳格化する入管収容 / 入管庁? 移民受入? 無視される在来の移民・難民 / SYI年間活動報告
  • 講演 「入管を訴えたアリ・アイユルドゥズさん ~裁判の争点は何か~」大橋毅さん(弁護士、アリさん代理人) *
  • 当事者・活動団体アピール

 * 次回アリ裁判は 12月4日(火)11時 東京地方裁判所703法廷


 いま国会では、人手不足を外国人労働者で埋めあわせるための法案が論争の的になっている。しかし、現行の入管システムの中心部で日々おこなわれている外国人の虐待は、わずかにしか話題に上らない。

 日本は「移民を受け入れない」と言いながら、実際にはたくさんの外国人を「技能実習生」「留学生」あるいは非正規滞在者として、搾取や使い捨てにされやすい劣悪な条件で働かせている。他方で、日本は難民を受け入れると国際社会に約束しておきながら、年間の難民申請者のうち1パーセントすら受け入れていない。そして入管は、その理不尽な規則から外れる人を「不法就労者」「偽装難民」などと呼んで貶め、刑務所のような収容施設にいつまでも閉じ込める。だがむしろ日本の入管政策こそが、その歪んだ実態を隠す“偽装”ではないだろうか。

 日本の悪政である入管政策の根本を支えている収容施設。そこで何が起きているのか。年間の状況を報告する。

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Flyer (PDF)


SYI(収容者友人有志一同 Shuyosha Yujin-yushi Ichido: Immigration Detainee’s Friends)
http://pinkydra.exblog.jp freeimmigrants@yahoo.co.jp 080-8844-7318




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# by p-dragon | 2018-12-02 00:00 | アクション・イベント  

ある日の入管63

Posted on: 2018年 11月 14日

入管の異常な世界のひとつを、みなさんにお届けしました。
とりあえず、この「B684」だれかクビにして。

クリックでかくだい。

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# by p-dragon | 2018-11-14 13:09 | 4コマまんが  

牛久入管の被収容者による集団要請 あなたも賛同を!

Posted on: 2018年 11月 12日

 ますます長期化し、残酷になる入管収容にたえかねて、牛久入管の被収容者が集団要請文を提出しようとしています。当団体は、要請文の作成者の一人からの依頼を受けて、この要請文をウェブ(特設サイト)に公開します。

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(バナーをクリックして特設サイトへ)

 要請文の作成者たちは、牛久入管の他のブロックの被収容者と、さらには支援者および日本社会の人びと一般にも、要請に加わることを望んでいます。それゆえに当団体は、要請文への賛同署名を、あわせて募集します。

 賛同署名フォーム

 ご注目、ご協力を!


収容長期化を回避し、仮放免を弾力的に運用することに関する請願
特設サイト https://sites.google.com/view/petition-ushiku-20181030

【要旨】
  1. 私達は帰国できない事情があり、在留継続を求めています。
  2. 牛久入管はそもそも長期収容の可能な施設ではありません。
  3. 収容の根本の目的をはなれ、長期収容により心身を痛めつけて、被収容者を自主的な帰国へと追い込む手法。
  4. 長期収容化について、日本にとって積極的要素が見当たらず、消極的要素が潜在しています。

 作成者: 東日本入国管理センター(牛久入管)の被収容者
 作成日: 2018年10月30日
 抗議する人々に連帯して、あなたも署名を!

 公開者および署名募集代行者: SYI (収容者友人有志一同)




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# by p-dragon | 2018-11-12 18:12 | 抗議・声明  

SYI's Public Debriefing on Immigration Policy (DEC 2)

Posted on: 2018年 11月 10日

SYI's Public Debriefing 2018: Japanese Immigration Control Policy as FALSE “No Admission of Immigrants” and FALSE Asylum Policy

December 2, 2018, 14:00-16:30 (open at 13:30)

Mansei-Bashi Hall, 3rd Fl.
Soto-Kanda 1-1-11, Chiyoda, Tokyo, 5 min. walk from JR Akihabara Sta. Electric Town Exit

  • Reports: Tight Immigration Policy and Detention, Debates on the Amendment of Immigration Act, SYI’s Activities
  • Lecture: What is at Stake in Ali Ayıldız’ Lawsuit against Immigration Bureau? By Tsuyoshi Ohashi, Attorney for Ali
  • Speeches of Former Detainees and Activists

Although a bill to amend the Immigration Control Act is currently a controversial topic, only few focus on the abuses repeated every day at the heart of present immigration control system.

Japan actually admits a large number of workers from abroad, but as disposable laborers like “trainees” “students” or irregular immigrants whose rights are strictly limited. Japan recognizes less than 1 per cent of asylum applicants in spite of its participation in UN Refugee Convention. It is Japan that DISGUISES the real face of Japanese immigration control system, as to be shown in our report on immigration detention this year.

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Flyer (PDF)

SYI(収容者友人有志一同 Shuyosha Yujin-yushi Ichido: Immigration Detainee’s Friends)
http://pinkydra.exblog.jp freeimmigrants@yahoo.co.jp 080-8844-7318




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# by p-dragon | 2018-11-10 18:11 | アクション・イベント  

アフリカ難民ルイスさんの証言 1

Posted on: 2018年 11月 03日

アフリカ難民ルイスさんの証言
 1 虐殺を逃れて

 1 虐殺を逃れて
 2 日本にたどりついたのに
 3 ふたたび迫害のターゲットに

 日本の入管および警察の権力濫用によって家族を引き裂かれたルイス・クリスチャン・ムバラさんの手記の日本語訳を、先日に公開した。

 参考記事 「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発 (2018年9月16日)

 くわえて、もともとルイスさんはアフリカからの難民である。しかし入管は彼を難民認定していない。彼は自分を強制送還しようとする入管の不当性を明らかにするため、自分の経験を日本の市民に知らせたいと希望している。以下は、ルイスさんの手記のうち、彼の難民としての事情にかんする部分の翻訳である。

 ルイスさんはカメルーンに生まれたが、紛争による避難先の中央アフリカ共和国での養子縁組により、中央アフリカ市民の身分をもつ。彼は2001年の中央アフリカでのクーデター未遂に巻き込まれ、想像を絶する虐殺から逃れるため、命からがら日本に逃げついた。

 ところが来日から約10年後、ルイスさんは 巻き込まれた事件のせいで、彼の中央アフリカの家族、親族が殺され、ルイスさん自身は自分の犯していない罪をなすりつけられ、刑務所送りになるまでの、悲劇的な経緯が記されている。しかもこの事態は、日本の警察が彼を離婚に追い込み、彼の事業資金を配偶者が無断で持ち去ることを警察が容認したことが、間接的な要因になっている(警察の件については上記記事の第3節を参照)。

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 [1]この手記を書くよう促してくれたボランティアに敬意を表しつつ。私はカメルーン出身のムバラ・ルイス・クリスチャン(1981年生)といいます。
 私の家族は巻き込まれた政治的問題のため、中央アフリカ共和国領に避難しました。詳しい事情については分かりません。当時私は5歳くらいでした。その後、両親と兄、姉は難民申請するためにヨーロッパに発ちました。私は、中央アフリカの首都ベンギの一地区に住む父の友人――二人ともムバヤ(Mbaya)という氏族に属していました――のところに残されました。私は彼の養子となり、アマドゥ・ウスマンというイスラム教の名を与えられました。こうして私は中央アフリカで育てられたのです。16歳のころ私は全国リーグに出るフットボール選手となり、そして19歳でナショナル・チームに選出されました。
 私が12歳のころ、中央アフリカでは政治的、軍事的な対立が生じ、氏族間の内戦へと発展しました。戦争の構図が変わるごとに、新たな氏族と指導者が権力に就き、昨日の友が今日の敵になるということが繰り返されました。とはいえ、こうした政治的側面にかんして私がきちんと説明できるわけではありません。私が知っているのは、毎日、身近なところで誰かが死んでいたということです。銃で、あるいはエイズをうつすことによって、人が人を殺していました。

2001年、クーデター未遂から虐殺へ
 2001年5月28日〔ルイスさんが20歳になる少し前〕に起きた、パタセ大統領の政権にたいするクーデターに、私の中央アフリカの家族は直接に関与していました。[2]クーデターが未遂に終わると、すぐに政府軍が、怒りと復讐欲に満ちた報復をはじめました。私の住んでいた場所も政府軍の標的にされ、14歳以上の男性はすべて殺され、すべての女性がレイプされました。私は幸運にも、両親とともにウバンギ川の向こう側、コンゴ民主共和国領に逃げることができました。
 二、三週間後に家に戻ると、居間で4人の兄弟の遺体を発見しました。私たち家族は非常に大きな衝撃を受けました。最悪だったのは、兄弟を家の敷地内に葬らねばならなかったことです。死体を墓地に運ぶ途中で政府軍に見つかれば、反乱勢力として捕まえられてしまったでしょう。そうなれば兵士たちによる最悪の身体的拷問を死ぬまで受けつづけたでしょう。そのような危険を犯すことは誰もしませんでした。
 政府軍と反乱勢力との戦闘は、私の家族や親族の多くが属していた氏族であるヤコマ(Yakoma)をめぐるものとなりました。

【参考資料】国連難民高等弁務官(UNHCR)短報(2001年6月29日)抄訳

中央アフリカ共和国 数万人が避難

 中央アフリカでは、先月のクーデター未遂にたいして政府が反対派の弾圧を始めて以降、数万人が避難のために自分の故郷を離れている。およそ6万人から7万人の国内避難民が、中央アフリカの首都バンギの南部にいる。それ以外にも1万4千から7千万人が、コンゴ民主共和国の北西の端にある赤道州に逃げている。

 ……クーデター勢力によるバンギのアンジュ=フェリックス・パタセ大統領邸への攻撃は、多数の死者を出したと報じられている。その後、報道によれば兵士たちは、〔クーデター指導者〕アンドレ・コリンバ元陸軍参謀長が属するヤコマ民族を狩りまわっている。

ルイスさんの兄がクーデターの中心人物として報じられる
 その後、銃撃により負傷したジャデル=ブダヤ将軍(François Ndjadder-Bedaya)が三週間の意識不明をへて死亡したと報じられました。政府によれば、将軍はクーデターの夜、勇敢にも反乱者たちに反撃するなかで、私の二人の兄のうち一人に撃たれたというのです。[3]この報道は国営のラジオおよびテレビで流されたので、私たちはみなそれを聞きました。怒りが国じゅうに広がり、政府軍の全兵士が敵を狩り出し殺すために出動しました。死体がそこかしこに転がりました。

 私の親しい人々がもの言わぬ死体となり、悪臭を発しながら腐っていくさまを思い出すと、耐えがたい苦しみに襲われずにはいられません。いまだに、いまだに私は、あの日々を忘れようと苦しみもがいています。

コンゴでの避難生活

 クーデター未遂がもたらした一連の帰結を見れば、私の中央アフリカの両親がもはや中央アフリカには暮らせないことは明白でした。

 私たちが一時的な隠れ家を見出せる場所は、コンゴ民主共和国のみでした。しかし不幸にも、私たちが居た、中央アフリカの首都ベンギの川向うにあるコンゴ領ゾンゴという都市は、ジャン=ピエール・ベンバの系列の反乱組織バニャムレンゲの民兵が支配する地域でした。私たちはまたもや戦時にある国に暮らすことになったのです。そこでの生活は地獄でした。あらゆる種類の支援を反乱勢力に提供しなければならず、それを拒んだなら兵士に連れ去られたのです。〔ベンバはモブツ失脚後に結成されたコンゴ解放運動MLCの指導者、2002年の和平後2006年まで副大統領。バニャムレンゲは、本来はコンゴ東部のルワンダ系の人々を指す語だが、1996年のコンゴ戦争以降、さまざまなバニャムレンゲの民兵組織がさまざまな勢力に結びついて活動した。〕

 私たちはコンゴに約一年間滞在しました。その間、さまざまな勢力どうしの争いにより、私たちの不幸は日々より大きくなっていったので、新しい住みかを探さねばならないと考えるようになったのです。コンゴは地獄でした。とはいえ、コンゴ領内を移動することは、大変なだけでなく危険なことでした。

避難先の選択
 [4]希望がもてる唯一の避難手段は、中央アフリカ共和国の首都ベンギのどこかの大使館でビザの取得を代行してくれるブローカーを使うことだけだったのです。しかしほとんどの大使館は政府軍に警備されており、全来訪者をチェックしていました。彼らに疑わしいと見なされた者が捕まると、そのまま行方不明となり、数日後に死体となって道端で発見されるのです。私たちの近くにあった唯一の大使館が日本大使館であり、しかも幸運なことに、そこは反政府勢力の支配区域に位置していたので、政府軍に警備されていませんでした。

 養父アマドゥ・エケウに授けられたアマドゥ・ウスマンというムスリム名のおかげで、ブローカーは私のパスポートを簡単に取得することができました。私たちは中央アフリカ・ベンギの日本大使館を訪れ、すぐに私のビザを取得すると、家族の車二台を売り払ってから、川を渡ってコンゴ領に戻りました。

 ここからが私の逃避行でもっとも危険な部分、すなわち、誰にも捕まらずに空港にたどり着いて飛行機に乗るまでの過程です。コンゴ民主共和国領内では、もっとも近い空港はすら二千キロも離れていました。[5]そこにたどり着くまでには、コンゴのさまざまな反政府勢力や政府軍のいる地域を通過しなければならず、そうした地域では中央アフリカ人もまた戦闘に加わっていたのです。そうした場所にいれば、私は敵の傭兵かスパイと疑われたことでしょう。他方で、中央アフリカの最寄りの空港までは6、7キロ程度の距離でしたが、それでもそこを目指すのは自殺行為でした。残る選択肢はカメルーンの空港でしたが、それもやはり危険な選択でした。長いあいだ困惑しつつも考えた結果、私の家族は、中央アフリカを経由してカメルーンの空港に行くという選択肢を私に試させようと決めました。


 2 日本にたどりついたのに
 3 ふたたび迫害のターゲットに



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# by p-dragon | 2018-11-03 09:27 | 個人のケース(証言・抗議)  

アフリカ難民ルイスさんの証言 2

Posted on: 2018年 11月 03日

アフリカ難民ルイスさんの証言
 2 日本にたどりついたのに

 2 日本にたどりついたのに
 3 ふたたび迫害のターゲットに


エクソダス
 中央アフリカでの私の旅はさながら出エジプト記のようでした。私のほかにも多くの人々が、手遅れになるまえに逃げるという私と同じ理由で、旅路を共にしたのです。検問を避けるため、私たちは徒歩で路上を進みました。政府の兵士たちがすべての車両を停止させ、すべての乗客の身元を注意深く確認していたからです。捕えられた者は死ぬまで拷問されました。途上では多くの死体を目にしました。道の先に人影が現れるたびに、私の心臓は高鳴り、恐る恐る顔を確かめました。

 私の兄弟の消息については何の報せもありませんでした。クーデター以後、[6]彼らの死体は発見されていませんが、しかし生存の証拠も見つかっていません。彼らについて善い噂も悪い噂も耳にしたものの、確たる証拠はまったく出てきませんでした。政府は、いまだに彼らを探し回っていると報じていました。

 もし私が捕まったら、パスポート、予防接種カード、そして身に着けた下着に隠していた5000ドルといった所持品は、私が逃亡者である明らかな証拠となったでしょう。それでも私は、野蛮から逃れるために進み続けました。家族や友達のことが、私が育った街のことが懐かしくてたまらなくなり、もし引き返せるのなら、という思いが去来しました。しかしそうすれば、カメルーン国境には二度と辿りつけなくなったでしょう。

 首都ベンギから離れれば離れるほど、旅路を共にする人たちの数は減っていきました。政府支持の街や村を避けるため、密林のなかを移動したことも何度かありました。私たちは集団で移動していましたが、自分の責任は自分でとり、事情をおたがいに秘密にしていました。私は森のなかで食べ物を見つけることがほとんどでしたが、その一方で、集落で食べ物を買ってくる人もいました。

国境をこえてカメルーンへ
 46日かけて、私たちはようやくカメルーン国境に到達しました。ようやく中央アフリカの兵士に捕えられる恐怖から解放されたのです。

 [7]ところがカメルーン領に入り、手続きのため検問所に入ると、そこでは悪夢が待ち構えていました。カメルーンの兵士に何時間も尋問されることになったのです。彼らは私が兵士ではないのかと言いがかりをつけ、私には分からないことばかり尋ねてきました。私はすべての言いがかりを否定しました。彼らは私を送還すると脅したうえで、とても払えないような高額のわいろを要求してきました。最終的に私から何も取れないと分かると、彼らは私を中央アフリカ領まで戻したのです。彼らカメルーンの兵士の冷酷さには別段驚きませんでした。クーデターが始まるまえから、彼らの残酷さを私は目撃してきたからです。〔中略〕

 [11]かつての忌まわしい記憶を思い出しつつ、もうカメルーン兵に手続きはもちかけるまいと決めました。国境で数日を過ごした後、私はブローカーを見つけ、彼と兵士とに少額のお金を払うだけで手続きを代行させることができました。

 ブローカーの案内で乗ったバスでは、運転手と助手以外、他の乗員もすべて中央アフリカ出身者でした。発車後20分ほどで検問所に停まると、兵士が全乗員にパスポートを出すよう命令しました。私たちは運転手に、2千CFAフランをパスポートに挟んでおくよう助言されました。最初の検問所を抜けた数分後には、また別の検問所に停められました。そこの兵士はより攻撃的な態度で、パスポートと予防接種カードを出すよう命令してきました。そして、ある兵士は自分が警察官だといい、別の兵士は自分を憲兵や医療機関の者などと称し、それぞれに金を要求してきたのです。何人かの乗員は抗議しました。彼らの制服から、彼らが同じ所属であることは一目瞭然だったからです。[12]しかし兵士たちは、金を出さなければ逮捕すると脅してきました。仕方なく私たちは金を払いました。それからも、カメルーンの都市ベルトゥアに到着するまで、検問所に停まるたびに金を払わされました。

 ベルトゥアはとても大きな都市で、あちこちに旅行代理店がありました。私は誰にも頼らず自分で、首都ヤウンデ行のバスを売るチケット売りを見つけ、バスに乗りました。大型のバスで乗員が20名はいました。ところが奇妙なことに、どの検問所でも兵士は私だけを目に留めてパスポートの提出を求めてきたのです。つまり、乗員のうち私だけが外国人だったのです。私はまたパスポートに金を挟んで渡しました。ヤウンデに着くまで、すべての検問所で同じことに煩わされました。

 なぜそんなに簡単に私が外国人だと分かるのか、不思議でした。私の血縁上の家族はカメルーンから脱出しましたが、それでも私は5歳までこの国に暮らしていたのです。それでは何が変わったのか。服装や髪形がカメルーンと中央アフリカでは大きく違ったのです。

ヤウンデ空港で出国を妨害される
 [13]ヤウンデまでは10時間かかりました。停車場には標識や案内図がなかったので、航空券を扱っている旅行代理店を見つけるためにタクシーを拾いました。スイス航空に連れてこられたので、そこで私は成田空港行の便を予約しました。代金はおよそ3千ドルでした。出発まで2日あったので、小さなホテルに泊まり、〔外国人と判別されやすい〕外見を変えるために服を買いました。

 私はなるべくホテルの部屋から出ないようにしました。家族や友人のことを思い出し、故郷にあったすべてが懐かしくなり、私は長いあいだ泣いていました。

 出発の日、離陸の二時間前に私は空港に到着しました。航空会社の窓口で予約を確認し、アナウンスを聞いてからゲートを通過すると、その先には警察と入管の窓口が、そしてさらには憲兵の窓口がありました。彼らは私のパスポートと予防接種カードを確かめると、とても払えない法外な額を払うよう要求してきました。彼らは私を尋問のための部屋に連れて行くと、私が中央アフリカ政府に追われている難民であることを非難し、[14]私を送還すると脅しました。もう離陸まで時間がなかったので、私は言葉を尽くして懇願しましたが、それでも彼らは私を通そうとしませんでした。

 2時間も尋問されたあと、500ドルを払ってようやく解放されましたが、私の便はもう離陸していました。航空会社の窓口に行くと、スタッフは私のせいで40分離陸が遅れたと怒っていました。事情を話すと、別な空港から発つように助言されました。ヤウンデは首都で〔外国人の往来が多いので〕、職員たちはいつも外国人に金をせびろうとするのだと聞きました。私はスイス空港に遅延のペナルティとして100ドルを払ったうえで、私はドゥアラ空港から発つ便に乗ることになりました。

日本にたどり着いてから
 5日後、私はドゥアラ空港にいました。私は問題なく機内に搭乗できました。スイスで私は乗り換えましたが、空港の名前は憶えていません。

 成田空港に着いたときには、ドゥアラを発ってからほぼ2日が経っていました。入管窓口では職員に厳しく尋問されましたが、数分後には窓口を通過して日本に入ることができました。入国日は2002年7月27日です。

 ルイスさんは空港で出会ったガーナ人の男性に渋谷まで案内されたものの、当時は英語が話せなかったのでコミュニケーションがうまくとれず、さらには宿代が払えるほど所持金が余っていなかったため渋谷駅周辺で2日を過ごす。その後、アフリカ人が多くいると聞いて訪れた原宿で、彼はフランス語を話せるアフリカ出身者に、国連難民高等弁務官(UNHCR)駐日事務所が渋谷にあると教えられる。UNHCR事務所に訪問すると、今度は難民支援協会に連れていかれ、そこで数日にわたりインタビューを受けた後、難民支援協会スタッフに案内されて入管で難民申請をおこなった。

日本の残酷な難民認定制度
 [16]私は入管で何度もインタビューを受けました。中央アフリカで起きたことについて私は明確に説明しました。しかし一年半後、入管は難民不認定の結果を下しました。私はすぐに異議申立てを行いましたが、しかし在留資格を切られオーバーステイにされてしまいました。

 それから11か月後、私はオーバーステイを理由に警察に逮捕されました。11日間留置された後、入管に送られ、一度のインタビューを受けてから、2004年4月頃、私の収容が決定されたのです。これが私にとってはじめての、1年6か月にわたって続く入管収容となりました。

 収容中、私は多くの強制送還を目にしました。トルコのクルド人の家族が送還されるのも見ました。入管職員による洗脳のせいで妻や子を失う人たちもいました。どれほど日本の難民システムが残酷なものかを私は知ったのです。こうしたことが起きるたびに私は大きな恐怖を覚えました。不安に襲われるのは毎晩のことで、明け方5時ごろに、多くの職員たちの足音が聞こえてくることを私は実に恐れていました。[17]なぜなら、この時間帯に入管職員たちは居室から被収容者を連れ出して送還するからです。

 東京カトリック教会の方々に保証人になってもらい、私はようやく解放されました。あの地獄から私を出してくれた彼らにいつも感謝しています。

 解放から数か月後に、難民不認定にたいする異議申立ての結果を知らされましたが、それは私の生命の保護を拒否するものでした。私のようなケースの難民を受け入れない国は日本以外にありません。送還されるのではないかという恐怖を日々より強く感じるようになりました。私は弁護士をつうじて入管にたいして難民認定を求める裁判を提訴しました。仮放免の更新で入管に出頭するたび、また収容するぞと職員に脅されました。私が裁判に勝てる見込みはなく、すぐに敗訴の判決が出るはずだから帰国しろと言われました。仮放免更新のための出頭日にはほぼかならず、多くの人が捕まって入管に連れてこられるのを見ました。

カメルーンのパスポートを取得
 中央アフリカに送還されるかもしれないことへの恐怖から、私は中央アフリカのパスポートのかわりに、私の出生国であるカメルーンのパスポートを取得することにしました。[18]カメルーン出身の友人が、本国の家族をつうじて私の必要書類を取得することを手伝ってくれたので、カメルーン大使館でパスポートを取得することは容易になりました。しかも大使館には、私の血縁上の父が属している氏族の出身者や、両親が政治問題に巻き込まれるまえに父と同じ上位の学校を出て、父と同じ政府機関に勤めたことのある人が勤めていたのです。

 入管の手続は非常に緩慢でストレスがたまるものでした。同様の経験のある外国人と話すたびに、日本の難民システムがどれほどに申請者を抑圧しているのかについて、より強く実感するようになりました。

 その後、2007年にルイスさんは、ある日本人女性と交際をはじめる。二人は愛情を深め、結婚を決意するに至る。女性はルイスさんの生い立ちを境遇を聞き、彼に深く同情したので、中央アフリカで養子縁組により得たアマドゥという名ではなく、出生地カメルーンで親が授けた本名ルイスで結婚することを提案した。ところが、本名での結婚を入管に届けると、入管はルイスさんの事情を無視して彼を収容してしまう。その後の事情については公開済。

「私は入管と警察に家族を奪われた」ルイスさんの告発






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# by p-dragon | 2018-11-03 09:25 | 個人のケース(証言・抗議)