SYIしんぶん 2014-02

4月末に公開したものですが、アップいたします。

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一部抜粋

★ SYIカフェ報告

 2月11日、東京都豊島区の勤労福祉会館でSYIの「食べよう! 学ぼう! SYI移民・難民交流会 第2回 韓国からの難民 光州事件とは何か?」が開かれました。お話と料理指導は、韓国からの難民Bさんです。開催日の前々日の8日と9日は、30年に一回という異常な大雪が降り、Bさんも会場まで来られるのに苦労され、到着が遅れましたが、会場到着と同時にテキパキと指示をくださり、それにしたがって、参加者も一緒にチヂミとチャプチェをつくりました。途中、チヂミを焼くため思いのほか使用量が多くなってしまったごま油が、なくなってしまうというハプニング(?)もありましたが、無事、料理が出来上がりました。お話を伺う前に食事となりましたが、どちらもすばらしい出来でした。少しあまった分は参加者のお持ち帰りとなりました。(料理が余る場合もありますので、お持ち帰りご希望の場合は次回以降ジップロックをご持参ください)
 本題のBさんのお話では、実際にBさんが体験された光州事件の体験談と日本に来られたお話と難民になった経緯を伺いました。韓国というと先進国でもあり、民主主義国というイメージがあり、ご存じのない方は、「なぜ難民が?」という疑問を抱かれると思います。しかし、Bさんが大学生だった1980年、韓国は軍事独裁政権でした。当時Bさんが大学生として住んでいた光州市では、朴正煕大統領の暗殺をきっかけに権力を掌握した全斗煥に対する反発が強まり、民主化の機運がたかまります。ノンポリだったというBさんも、学生を守ろうとしたおじいさんへの暴行事件など、軍の横暴を目撃し、次第に運動に参加するようになります。一時は軍を追い出し、光州を解放区とし、信仰から守るために警察が残した装備で武装した市民や学生も、空挺部隊の参加などで増強された圧倒的な軍事力を前に、包囲されてしまいました。軍の侵攻に抵抗した多くの人が殺されました。Bさんは、ある光州市民の助けで、なんとか包囲を抜け出しました。しかし軍政下、光州の外では、光州市民は危険な反体制分子として扱われつづけました。左派的な書籍を持っていたり、光州市に関係しているだけで、検問で捕まるようになり、警察署に連行拷問されるような状況となっていました。拷問で共産主義・民主主義運動と関わっていると認めてしまうと、命の保証はありません。Bさんもなんどか拷問されましたが、苦しくても運動への関与は認めませんでした。
 その後、韓国も民主化し、かつてBさんの光州からの逃亡を助けてくれた市民のあっせんで、弁護士の元で働くようになったBさんですが、2000年代になり、仕事で来日したさい、ビザの更新のトラブルで入国管理局に収容されることになります。入管収容所では、病人やけが人を放置するなど、Bさんの経験した韓国の軍事政権と変わらない態度で外国人を遇するありさまに、Bさんは闘争心がかき立てられ、待遇改善闘争をはじめました。さらにはそのさなか、韓国でBさんを助けてくれた支援者が、朝鮮民主主義人民共和国と関係しているとの嫌疑を国家情報院にかけられ、逮捕されてしまいました。民主化したとはいえ、韓国ではいまだ国家保安法という法律が存在しており、共和国と関係したと見なされた人は、数十年にわたる懲役を科せられてしまいます。やむなくBさんは日本で難民申請をすることとなったのでした。
 光州事件当時の話に及ぶと、ときおり、当時を思い出し、涙ぐむ場面もあったBさん。辛い思いでも乗り越えて語っていただきました。難民申請はいまだ認められていません。Bさんの難民認定が認められるよう求めていきたいと思います(肉之助)
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by p-dragon | 2014-06-09 20:59 | 声明・情報・考察  

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